鎌倉散策 由比若宮(元八幡) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鶴岡八幡宮の前身の神社である。永承(1051)元年前九年の役が始まり、安部氏が朝廷への貢祖を怠り、討伐が行われた。源頼家は父頼義に伴って出陣の祭に京都の石清水八幡宜位で戦勝祈願を行う。源頼義が康平六年(1063)八月、前九年の役で奥州平定後、戦勝のお礼の為、この地、鎌倉の由比郷鶴岡に石清水八幡宮を勧請し社殿を建立したのが由比若宮である。鶴岡八幡宮が現在地に遷祀されてから元八幡と呼ばれている。

 
 

 源頼義は清和源氏の河内源氏二代棟梁で武勇に優れ、弓の名手として謳われた。長元元年(1028)、かつての家人であった平忠常が関東において反乱を起こす(平忠常の乱:長元の乱)。父頼信と頼義は忠常討伐に出陣する。頼義は奥州を平定後、長元九年(1036)に相模守に任じられ、元相模守で桓武平氏の嫡流筋である平直方に武勇と弓の名手として感じ入れられ、直方の娘の婿になり義家が生まれた。直方は大蔵邸と所領地を頼義に譲り渡し、直方の娘と八郎太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の三人の子息に恵まれた。鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となり、由比若宮は源氏の氏神となった。

 永保元年(1081)、後三年の役で奥州へ出陣する際に由比若宮に参詣し、社殿の修復をしたと伝えられており、で義家境内には義家が旗を立て戦勝祈願したと伝えられる「旗立の松」が置かれている。治承四年(1180)、鎌倉入りした源頼朝は由比若宮を小林郷の北山(現在地)に移し、新しく造営し、鶴岡八幡宮が出来た。その後、由比若宮は元八幡とも呼ばれるようになった。頼朝の五代前の先祖が頼義である。

 すぐ近くに、石清水の井があるがこれは石清水八幡宮に因んだものだろう。また、すぐそばに芥川龍之介の旧居跡がある。塚本文子と結婚し由比若宮の北側を小山別荘と呼ばれそこで新居を構えた。鳥居横に文学案板があり、内芥川がこの頃の事を、絶筆となった「或る阿保の一生」の中で次のように書いている。    

 十五 彼等

 彼らは平和に生活していた。大きい芭蕉の葉の広がったかげに。

― 彼らの家は東京から汽車でもたっぷりと一時間かかる或る海岸の町にあったから。

 

 もう何年も前から鎌倉を訪ね、今は鎌倉に住み、初めて由比若宮(元八幡)に来た。込み入った街並みに佇む社の朱の色を日没の早くなった陽が綺麗に映していた。このあたりは鎌倉の昔の下町の様相が窺える。

 

由比若宮(ゆいわかみや:元八幡) 鎌倉市材木座1-7 境内参拝自由