辻の薬師堂は、建久元年(1190)に源頼朝が二階堂に建立した医王山東光寺の境内にあったものと言われる。東光寺は護良親王が幽閉され、後に足利直義に殺害された寺院であり、その後廃寺になり、現在の鎌倉宮の地にあったと言われている。幕府滅亡後東光寺は廃寺になったようで、宝永元年(1704)、薬師堂は大町名越嶽(名越切通付近)にあった古義真言宗長善寺に移された。長善寺は奈良時代の神亀年間(724~729)に由比の長者染谷太郎時忠の建立と言われる古刹で、由比の長者染谷太郎時忠は来迎寺(西御門)に一人娘が浜で遊んでいた時、大きな鷲にさらわれ、死体となって見つかり供養にと娘の遺骨を如意輪観音像の胎内に納めたと伝わる人物である。古義真言宗長善寺はその娘の遺品が見つかった地で、供養の為に建立されたという。また鎌倉で最も古いとされる甘縄神社も建立したとされる。その後、長善寺は大町辻に移り、延宝二年(1674)五月に水戸光圀も訪れている。
古義真言宗長善寺は江戸時代末期の火災により焼失し、薬師堂だけが残った。明治期の横須賀線施設に伴い、現在地に移設された。現在は大町辻の町内会の人々によって手あつく維持管理されている。
お堂に祀られていた木造薬師如来立像は行基の作と言われていたが、鎌倉市の文化目録で平安時代後期の作と推定、脇侍の日光・月光菩薩像は室町時代を下る作であり、年代的に行基の生存と整合性が合わない。昭和十五年の調査で体内から多くの経と二階堂東光寺の本尊の銘札が出て来たという。十二神将像は、十二体の内八体は力強く、鎌倉時代の作で、四体は江戸時代に造補された像であるとされる。覚園寺十二神将は辻薬師十二神像の原型であったと言われ、鎌倉の十二神将像で最も古い秀作である。室町時代の鎌倉仏師朝祐の作とされており、系図上、慶派のつながりは推測であるが、運慶の動きを引き継ぐような像である。神奈県指定文化財に指定され、平成五年からの十四年の修理を終え、鎌倉国宝館に移管された。堂内にはレプリカが置かれており、覗き穴から賽銭を入れると三十秒ほど照明が付き堂内を窺う事が出来る。
七・八年前に鎌倉に来た時に覚園寺の十二神将のすばらしさに心が弾んだが、その原型となる象があることを知り、国宝館に行ったこともある。その時は四体ほどの展示であった。辻の薬師堂の事を知り、何時かは行ってみたいと思っていた。薬師如来三尊もレプリカであるが素晴らしい像である。現在でもガイドブックや地図等であまり紹介が無く、鎌倉をぶらぶらと散策しているうちに、この小さなお堂に来てしまった喜びはひとしおである。また、大町辻の町内会の人々によって手あつく維持管理されていた事が、心に熱い物を感じた。
辻の薬師堂 鎌倉市大町2丁目(本興寺前)鎌倉駅東口徒歩十五分