鎌倉散策 金沢街道 報国寺(ほうこくじ) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉で「竹寺」として知られ、平日においても観光客が多く、人気のある寺院である。寺院の拝観券の裏に創建は建武元年(1334)に創建され、臨済宗建長寺派の禅宗寺院とあり、開山は天岸慧広(てんがいえこう)で無学祖元のもとで修行した後、渡元し帰国後、仏乗禅師と呼ばれる。開基は足利家時(足利尊氏の祖父)と書かれている。

 建武元年は幕府滅亡の翌年である。足利家時の生没年について諸説あるが臼井信義説は元弘元年(1331)没、「滝山寺縁起」では弘安七年(1284)没、前田治幸論文(2010)等でも弘安七年説が採用され、最新の説になっている。霜月騒動(幕府公文書執事の平頼綱と幕府重臣の安達泰盛の武力衝突、泰盛が敗死しその後の得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立し、頼朝没後、北条家と有力御家人の最後の抗争である)に連座して自害したとされる。享年二十五歳であった。太平記(信憑性はないが)によると家時が「我命をつづめて、三大中に天下をとらしめ給へ」と置文(遺言)を残し、孫の高氏(後の尊氏)が実行し室町幕府を開いた。

 

 家時の墓所は報国寺で開基とされているが、創建の年には亡くなっており、報国寺の開基は南北朝期の上杉重兼(宅間上杉家祖)であると考える。室町期には報国寺一帯の谷の名が宅間と称された。家時と関係が深く尊氏の叔父が上杉憲房である。『鎌倉古寺社辞典』では家時の母が息子の供養とし、墓塔や堂宇を守り、上杉氏が供養し、臨済宗寺院を建立したとある。お寺さんが開基を足利家時と称されている以上それ以上詮索するのも野暮な話である。また、この地は永享の乱(1439)で第四代鎌倉公方の嫡男の足利義久が十歳で自答した悲劇の地でもある。

宗派:臨済宗建長寺派。 山号寺号:巧臣山報国寺。 創建:建武元年(1334)。 開山:天岸慧広。

開基:足利家時。 本尊:釈迦如来。 寺宝:国重文・東帰集、天岸慧広度牒( どちょう)、天岸慧広戒牒(かいちょう)、天岸慧広頂相(ちんそう)。県指定文化財・在中和尚頂相、羅漢図、花鳥図。市指定文化財・文殊大師像、十六羅漢像、暘谷(ようこく)和尚頂相、牡丹蝶鳥銅鏡、本尊釈迦如来坐像(本堂)仏乗禅師座像(迦葉堂)。数多くの文化財を所有されており、特に「東帰集」は仏乗禅師が財源の時から帰国後に作った偈頌(げじゅ:漢詩)約二百篇を集めた物で、日本人によるまとまった偈頌集説いては初めてのものである。

 

 瓦葺の山門を通り少し行くと右側に本堂に通じる石段がある。本尊釈迦如来座像が安置されている本堂に通じる。本土右手には仏乗禅寺像が安置されている迦葉堂がある。左手に茅葺の鐘楼と「竹の庭」と呼ばれる入園口がある。約二千本の孟宗竹が茂る庭で、報国寺が「竹の寺」と称される庭であり、入園料が必要である。この竹庭は休耕庵と言う塔頭があったところで、空を隠す竹林の中に散策路が設けられ、地蔵、仏塔、「天岸の岩」が置かれている。本殿背後にやぐらがあり、家時、義久の墓と言われる石塔が安置されている。また、塔頭跡にちなみ休耕庵と言う茶寮があり、竹林と向かい合うように建てられている。風による笹の音や、竹が打ち合う音を聞きながら、穏やかな気持ちで抹茶を楽しめる。こちらでは抹茶と落雁が出される。よく和三盆と落雁は同じものと理解されている人がおられるが、違う。和三盆は香川・徳島県で取れたサトウキビの砂糖を固めたもので、落雁は砂糖および穀物の粉と共に固めたものである。

 この鎌倉で禅宗寺院による座禅会が開かれているが、こちらでも、毎週日曜日早朝から座禅会が開かれ、初心者にも禅宗の本格的座禅を教えて頂ける。参加ご希望の方は寺院にご連絡するのが良いだろう。

 

 金沢街道は、いつも浄妙寺前でバスに乗られる方がすごく多く、私は金沢街道を歩く時は杉本寺から歩き、十二所神社まで行って、バスの時刻表を見て十二所神社前バス停からバスに乗るか泉水橋まで戻ってバスに乗るかをしている。泉水橋はバス便が多いからだ。その方がバスで座ることが可能である。鎌倉の金沢街道は杉本寺、そして健脚の人は市中の寺社仏閣を回られる。杉本寺は住所が二階堂の為、以前に紹介させていただいた。金沢街道は、それぞれ宗派の違う寺院を訪ねる事が出来、鎌倉らしき素晴らしい寺院が多い。

 

金沢街道 報国寺(ほうこくじ) 鎌倉市浄妙寺2-7-4 ☏0467(22)0762 拝観時間:九時から十六時。 拝観料二百円。鎌倉駅東口より金沢八景、大刀洗、ハイランド行バス浄妙寺下車三分。