西御門の街並みを歩き、来迎寺を訪ね、その後、横に鎮座する八雲神社を参拝した。
鎌倉には八雲神社が八雲神社(大町)、八雲神社(山之内)、八雲神社(常盤)、八雲神社(西御門)の四社が存在する。八雲神社(大町)は社伝によると永保年間(1081~1084)に京都祇園社から勧請されたと伝えられている。祭神は須佐之男命、稲田比売、八王子命、佐竹氏の御霊である。八雲神社(山之内)は『相模風土記』に元仁二年(1224)祇園八坂の神礼を勧請したとされ、祭神は素戔嗚尊である。八雲神社(常盤)は社殿によると治承年間(1177~1181)に除災を祈願して建立され、祭神は素戔嗚尊、速玉之男命、伊弉冉命である。八雲神社(西御門)は旧村社に列格され、西御門の鎮守社ある。縁起は定かでなく、『相模風土記』にある「字大天の天王社」がこの社の前身と言われる。神殿は天保三年(1832)五月建立と「大正七年明細書」に記載がある。祭神は須佐男命であり、例祭は七月六日、境内社に稲荷神社が鳥居内横にある。
西御門は源頼朝により鎌倉幕府が開かれ、十世紀の中頃に平安京で完成した貴族住宅様式の寝殿造の大倉御所が東西南北に門があり、西側の門の名称であったが、現在は地名となった。
文化財は三基の庚申塔(延宝八年(1680)銘:鎌倉市指定有形民俗資料)。左は元禄五年(1692)、中央は延宝八年(1680)、右は文化五年(1808)、左右の猿が向き合う。手が四本の青面金剛明王の像である。庚申塔は庚申信仰の本尊として知られ。インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来しており、庚申講は三尸(さんし:人間の胎内にいる三尸虫)を抑える神とされている。庚申の日に寝ている間に、その人間の悪行を天帝に報告するとされ、庚申の日には夜通し眠らず、勤行を行い、宴会をする風習がある。青面金剛明王像は日本の民間信仰の中で独自に発展した尊像であり、青に塗られるのは釈迦の前世に関係しているとされる。真言密教の明王像、特に軍荼利明王に通じるものがあるといわれ、日本仏教における信仰対象の一つの夜叉神ある。庚申塔は沖縄県を除く日本全国に存在するが、特に関東圏で数多く、庚申信仰の中心的な寺社がある京都、大阪などの関西圏では建立が少ない。この鎌倉では数多くの庚申塔を見る事が出来る。
普段は鳥居にワカメのようなホンダワラがかけており、理由はわからないが、今回はなかった。
追補:(令和二年十二月八日)、瓜生中著『よくわかる山岳信仰』から、古くから神社の例祭には海水撒いて清めるという風習があるという。鶴岡八幡宮の例祭に際し海藻を狛犬や鳥居の下など境内のあちらこちらにワカメなど海藻が供えられる。海の近い所では海水が容易に利用できるが山間部ではワカメなどの海藻を用いて清め奉納されるらしい。鎌倉は海が近いが、海藻を用い清め供え、奉納し、この西御門にある八雲神社でも、そのようにされている。
鳥居横に太平寺跡を示す石碑がある。社殿左奥に妙見菩薩の石碑があり、上部に北斗七星が刻まれている。妙見菩薩は仏教の信仰対象である天部の一つで、北極星、北斗七生を神格化した菩薩である。妙見尊星王、また、北辰妙見菩薩と呼ばれる。中世には千葉氏(妙見説話)や九戸氏(陸奥国を本拠とした武家)が妙見菩薩を一族の守り神としている。日蓮も重んじたため、日蓮宗寺院に祀られていることが多い。明治期の神仏分離令に基づき社殿左奥に置かれているのかもしれないが、石碑は新しく、他に何らかの由来があるのだろう。
先日、家族が鎌倉に来た際、行き付けのBarでPARKERの万年筆とボールペンの入ったペンケースを忘れ、預かってもらっている。万年筆が好きで、PARKER、MONTBRANC、Cartier、PELIKAN、WATERMANなど海外旅行のお見上げに買い、持っているが、このPARKERの万年筆が一番気に入っている。昔に買ったMONTBRANCの万年筆は中古ショップでもかなりの値段が付く。家の机の引き出しに残っている万年筆の筆先を水洗いし、外側のフック部分をオイルで拭き、大切に保管するといいと思います。
小町通りの、おかみさんのいる店に行き、美味しいものを食べて、Barに行こう。