鎌倉散策 来迎寺(西御門) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

  少し、鎌倉に秋の彩りが見られるようになり、閑静な街並みを歩きたく、西御門の方に出かけた。鎌倉では来迎寺と言う名の寺院は西御門と材木座に二寺ある。宗派はどちらも時宗藤沢山清浄寺末(じしゅうとうたくざんしょうじょうこうじまつ)である。鎌倉で時宗藤沢山清浄光寺末の寺院は来迎寺(西御門)、来迎寺(材木座)、教恩寺、向福寺、別願時の五つの寺院が存在するが、今回は来迎寺(西御門)について述べさせていただく。

 西御門は頼朝が鎌倉幕府を大蔵に建てた際に四方に門を作り、西側の門を西御門と呼び、現在は地名となっている。鎌倉三十三観音霊場五番札所であり、ここまで御朱印をいただきに来られる方も多い。この寺院は如意輪観音半跏像が有名で、本尊脇の如意輪観音半跏像の表情は微笑ましく、優しげな顔をされており、他にある観音菩薩半跏像と違った表情をお持ちである。また、鎌倉地方特有の仏像装飾技法の一つである土紋を施した像であり、『鎌倉市社寺編』では元は源頼朝の持仏堂であったものを移したとされている。来迎寺の如意輪観音半跏像の土紋は粘土や漆を混ぜ土抜きした文様を木造に張り付け、刺繍の文様を立体的に表現する技法であり、宋の仏像の盛り上げ彩色(胡粉:ごふんで文様を盛り上げたもの)に学んだものと考えられる。京都では盛り上げ彩色として残り、鎌倉では土紋として変化したと考えられる。盛り上げ彩色の様に細かい文様ではないが、土紋はより立体感を出す。鎌倉に残る土紋を用いた仏像は少なく、この来迎寺の意輪観音半跏像、浄光明寺の阿弥陀如来坐像、浄智寺の韋駄天立像、東慶寺の聖観音立像、覚園寺の阿弥陀如来像、宝戒寺の歓喜天像、円覚寺塔頭の伝承庵の地蔵菩薩坐像の七体のみである。604

  

 来迎寺の如意輪観音像には逸話がある。由比の長者の一人娘が浜で遊んでいると、大きな鷲にさらわれ、死体となって見つかり、長者は嘆き悲しんだ。供養にと娘の遺骨をこの如意輪観音像の胎内に納めたと伝えられている。遺骨は現在も寺に遺っていると言う。

宗派:時宗藤沢山清浄寺末。山号寺号:満光山来迎寺。創建:永仁元年(1293)。開山:一向上人。本尊:阿弥陀如来。寺宝:木造如意輪観音半跏像(厄除け、安産の守護尊)、木造地蔵菩薩像(宅間浄宏作と伝えられる)、跋陀婆羅尊者像(ばつたばらそんじゃぞう:「自休様」とも呼ばれる。足腰の痛み、頭痛、目の病に効験)。創建が永仁元年(1293)になっているが、時宗一向派の宗祖の一向俊聖であるならば没年が弘安十年(1287)であるため年代に矛盾が生じる。しかし、私にとって、それを論ずるのも野暮なことである。

 

 今回、来迎寺に来たが、拝観中止と本殿横に張り紙がなされており、この日だけだと思うが如意輪観音半跏像を拝観することはできなかった。とても残念である。来迎寺横にある八雲神社に参拝し、帰路に就く、途中、八幡宮の東の通りを歩いていると真っ赤な彼岸花が咲き始めていた。