鎌倉散策 扇ヶ谷を歩く 壽福寺 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 壽福寺 ( じゅふくじの総門を入ると両脇を古木で囲まれた、真直ぐに伸びた敷石の参道が山門に続く。鎌倉を象徴する美しい景観であり、新緑の頃や紅葉の頃は特に美しい。  

宗派:臨済宗建長寺派。 山号寺号:亀谷山壽福金剛禅寺(きこくさんじゅふくじこんごうぜんじ)。 創建:正治二年(1200)。 開山:栄西。 本尊:宝冠釈迦如来。 寺宝:栄西著『喫茶養生記』(国重文)、木造地蔵菩薩立像(国重文)。

 山門の横に「亀谷山壽福金剛禅寺」と刻字された大きな石柱がある。山号の亀谷山は扇ヶ谷付近の鎌倉時代の旧称で、「亀ヶ谷」にちなむ。室町時代に入り、扇ヶ谷に変わったようだ。英勝寺の地を扇ヶ谷上杉の屋敷跡とされている。亀ヶ谷は鶴岡の対語都として名づけられたという説もある。裏山が亀のような形をした源氏山であったという説。また、亀ヶ谷坂は亀が登ると急で、亀がひっくり返るという事から付けられたともいう。鎌倉時代は亀ヶ谷もこの一帯を指し谷戸の細部には別名もつけられている。浄光明寺のあたりは藤谷と呼ばれていた。

 平安時代の「陸奥話記」によると、平忠常の乱(1028~31)の討伐の為、源頼信・頼義親子は関東に下向した。その際、鎌倉を領地にしていた検非違使の平直方(桓武平氏)が頼義の弓の見事な技術にほれ込み娘の婿にした。そして義家が生まれ、土地を譲り与えられ、源氏の関東の拠点ができた。頼義は頼朝の五代前の先祖である。また、頼朝の父義朝は沼間(逗子市)と亀谷(現在の寿福寺当たりの地を所有し、亀ヶ谷に邸宅があったことが古文書等で確認されている。「吾妻鏡」によると治承四年(1180年)十月六日、頼朝が鎌倉に入りし、この亀ヶ谷に居を構えようとしたが、狭隘(きょうあい)な地であり、すでに岡崎義実が義朝を弔う仏社(亀谷堂)を建立していたため大倉の地(源、鶴岡八幡宮東)に新居を立てたと記載されている。

 正治二年(1200)北条正子は、頼朝の死の翌年に、この地を明菴栄西(えいさい:ようさい)に寄進して、寺院を建立する。後、鎌倉五山第三位の寺として位置付けられた。栄西は、二度にわたり入宋し、「興禅護国論」などで、日本にはじめて禅を伝えたとされる。鎌倉の壽福寺、京都の建仁寺を開山したが、当初、壽福寺は天台、真言、禅の三宗兼学の寺で、禅宗の専門道場ではなかった。建長寺より創建は古いが、わが国初の禅の専門道場としては、建長寺があげられる。栄西は茶の苗を持ち帰り、茶の効用「喫茶養生記」(国重文)に記して、源実朝に献じた。当寺の茶は主に薬として用いられ、禅宗と茶の儀礼がともに広がっていった。建久九年(1198)成立の「興禅護国論」を比叡山が圧力をかけ。難を逃れるために正治二年(1200) 、頼朝の死後の翌年に五十九歳で鎌倉に下向した。北条正子、実朝は栄西の鎌倉入りを非常に歓迎したとされ、「吾妻鏡」などで「葉上房乃寺(養生房:栄西の別称)」、「栄西律師亀谷寺」と言う記載がみられ、相当な招聘と礼を尽くされたことがわかる。

 山門からは非公開で仏殿周辺は山門から拝観でき、仏殿横の柏槇の古木を見る事が出来る。この仏殿に「籠釈迦」といわれる高さ二百八十三センチの本尊宝冠釈迦如来像と文殊菩薩像、普賢菩薩造などが祀られている。

壽福寺、東慶寺、妙本寺の墓地は谷戸のやぐらに囲まれ、鎌倉らしき情緒が残り、散策するのが好きだ。壽福寺の裏山の裾にある墓地のやぐらには源実朝とその母政子の五輪塔がある。また、明治の外務大臣、陸奥宗、俳人高浜虚子、作家の大佛次郎などの墓がある。墓標を探すことで新しい事が発見できることもある。この墓地から源氏山公園にも行ける。今小路を通り、鎌倉駅方面に向かう。