鎌倉には美しい地名が多い。雪の下、紅葉ヶ谷、扇ガ谷と。特に扇ガ谷は寺社の多いところであり、散策には適しており、鎌倉らしき寺社を見る事が出来る。英勝寺は江戸時代に創建されたお寺院であり、鎌倉にありて、一見、新しいお寺として見られがちであるが、境内の中に入れば、希少なものが多く残されている。また鎌倉で現存する、唯一の尼寺であり、境内はよく整備され、季節に応じた花々を咲かせている。尼寺の閑静さと配慮がなされた寺院である。
英勝寺 えいしょうじ
宗派:浄土宗 山号寺号:東光山英勝寺 創建:寛永十三年(1636)
開山:玉峯清因(父水戸頼房、水戸光圀の姉) 開基:英勝院尼(太田道灌五代の子孫)
本尊:阿弥陀如来
寺宝:本尊木造阿弥陀如来三尊立像ほか
この寺院の由来を調べていくと平安時代から記載していかなければならなく、それも歴史が好きな故、長文になり、申し訳ございません。「東光山英勝寺 拝観のしおり」を参考に述べさせていただきます。平安・鎌倉時代、英勝寺の地は亀ヶ谷、扇ヶ谷などと呼ばれてきた。平安時代、この地に源頼朝の父実義朝の屋敷があったと言う。しかし、平治の乱で敗れた義朝の霊を祀るために、亀谷堂に、鎌倉時代になり寿福寺に祀られた。鎌倉幕府滅亡後、鎌倉の地は足利氏が関東を収める拠点として支配した。扇ヶ谷は足利氏の鎌倉公方を補佐する、関東管領上杉氏に与えられた。山ノ内上杉が関東管領職を独占し、扇谷上杉家は山ノ内上杉家を支える分家的な存在であった。その扇谷上杉の家臣であり、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰で太田氏もこの上杉屋敷の一角に居を構えていた。太田道灌は江戸城築城したことで有名であるが、武将としても学者としても一流と定評があるが、山ノ内上杉、扇谷上杉の争いに巻き込まれ、文明十八年(1486)謀殺され、太田氏は没落する。
江戸時代に入り徳川家康は、自分が源氏の血を引くことを理由に、先祖の地として鎌倉の寺社の創建・再建を行った。また、没落した関東の名家の救済にも力を入れた。道灌五代の孫、重政も小田原城落城後、召し出された。徳川譜代の家としては新参であったが江戸城の故守としての家柄と家康の寵愛を受けた「お八」の兄と言うことで、後に一万五千国を与えられて諸侯に列した。太田重政と「お八」が兄妹であったことに対し異説もある。お八の父が太田道灌の曾孫にあたる太田資宗(すけむね:初名は康資)とする説と江戸城代の遠山直影とする説、豊臣秀吉に領地をうばわれた江戸重光の娘が太田康資の養女になったという説がある。また重政が遠山氏の系図に含まれており、父の死後母方の「お八」と兄妹の様に育てられたのではないかと考えられる。
家康の寵愛を受けた「お八」は器量が良く聡明で、名を「お梶」と改め、戦場にまで供をした。家康は連戦連勝し、関ヶ原の勝利を祝い、お梶を縁起の良い「お勝」の名を与えた。大阪冬の陣、夏の陣でも供をしたと言われる。慶長十二年(1607)に一女に恵まれ、一姫と名付けられた。しかし、四歳で亡くなり、成人すれば伊達政宗の嫡男忠宗に嫁ぐ約束までできていた。家康は失意に中の「お勝の方」に水戸頼房(家康の十一男)の養育を命じた。二十五万国の藩主とはいえ、いまだ八歳の頼房に「お勝の方」は、養母となり頼房を育て、さらに徳川御三家の一つ水戸徳川家の基礎も築き上げた。
元和二年(1616)四月、徳川家康逝去。「お勝の方」は出家し、名を英勝院と改めた。それから二十年、還暦に近づいた英勝院は先祖を供養し、自分の後生を祈るため、寺を開くことを幕府に願った。願いが許され、寛永十三年(1636)十一月二十三日、太田家ゆかりの扇ヶ谷に仏殿が完成、翌年には水戸頼房の娘の小良姫(玉峯清因)が住職として入寺、寛永十五年(1638)には三百石の寺領が許された。みな、英勝院を慕う将軍家光の配慮であった。当寺の寺領としては建長寺をしのいだ。また他に三千両が寄進され、これを元手に貸金を行い。その利子で寺の維持管理に充てられた。仏殿には(県重文)運慶作阿弥陀三尊(家光寄進)を中心に善導、法然上人の木造が安置されている。
英勝寺が歩み始めて七年、英勝院は病臥すことが多くなり、将軍も度々見舞い、回復を祈られたが、寛永十九年(1642)八月二十三日、逝去された。享年六十五歳であった。葬儀を基に寺領は百二十石を加増された。仏殿一つの境内には水戸光圀によって祠堂(しどう)が建てられ、完成の折、来訪している。また、讃岐高松藩・初代藩主、松平頼重(水戸光圀の兄であり水戸徳川家初代藩主徳川頼房の長子が寛永二十年(1643)に山門が建立された。扁額(へんがく)の『英勝寺』は御水尾上皇(ごみずおじょうこう:第百八代天皇)宸筆によるものだ。この山門禅宗様と和様を組み合わせた二階二十問で、屋根は反り返りなく直線的で、初層軒下の蟇股(かえるまた)には龍をはじめ八種からなる彫り物が施されている。上層には高欄をめぐらし、眼象窓(げじょうまど)と呼ばれる比較的新しい形の窓が設けられている。上層部には阿弥陀如来を中尊とし、左脇侍(脇侍)・観音菩薩と、右脇侍・正詩菩薩を配しており、その周りに十六羅漢像が安置されていると、山門にある説明文を参照させていただいた。次々と唐門、鐘楼など加えられ、住職が暮らす姫御殿、その他僧侶の、寺侍、医師、料理人たちの下御殿、御長屋、代官所なども整えられ、依頼、英勝寺は水戸家の御寺と称えら、代々、水戸徳川家の息女を住職として迎えるため水戸御殿とも称された。かなり広い寺域であったと考えられる。創建以来一度も火災にあわなかったが、関東大震災で被害を受けた。仏殿、鐘楼(県重文)、祀堂などは江戸時代創建時のままで、現在まで歴史を重ねられた。
重厚な伽藍に加え、樹木園や花畑、菜園まで整えられた寺は鎌倉では異色の存在であった。寺の行事も英勝院と水戸家に関する法要のほか、武士の家と同様に初午、雛祭り、七夕、月見の宴をも催された。また、裏山では僧侶、奉公人そろっての桃の花見、わらび取り、由比ヶ浜では松露摘みなども楽しまれた。威厳に満ちた御三家の寺にも、雅な風情が行われていた。
三つ葉葵の紋を掲げた総門(県重文)が開くのは英勝院の命日のみで、普段は通用門から境内に入る。竹林も美しく、季節に合わせた花が咲き、春は桃、山吹、牡丹。夏は額紫陽花、百日紅。秋は彼岸花に秋明菊。冬は侘助、椿。他にも多々多くの花が咲く。今回訪れ、紫の睡蓮が一輪、可憐に咲いていた。