浄光明寺は扇ガ谷では寿福寺に次いで古い寺院である。十四世紀ごろの浄光明寺を浄光明寺教地絵図にて当時の教地を見る事が出来る。鎌倉には二階堂の覚園寺と浄光明寺の二つの寺が真言宗泉涌寺派の寺院である。京都の泉涌寺は天皇家の菩提寺であり、菊の御門がみられる。三門から本殿を見下ろすように作られ、国内では珍しい伽藍を形成している。
浄光明寺(じょうこうみょうじ)
宗派:真言宗泉涌寺派。 山号寺号:泉谷山浄光明寺(せんごくざんじょうこうみょうじ)
建立:建長三年(1251)。 開山:真阿 しんあ(真聖国師 しんしょうこくし)
開基:北条長時
境内参拝は自由。阿弥陀堂での拝観は木・土・日・祝日の十時から十二時、十三時から十六時、雨天休止で、拝観料二百円。
浄光明寺は源頼朝の願いで文覚(もんがく)上人が建てられた堂が始まりと伝えられ、建長三年(1251)鎌倉幕府六代執権・北条時長が、開山に真阿を迎えて建立した。真阿は生没年が不明であるが、真聖国師と言う国師号を与えられるほどの高僧で、法然上人から続く善導大師本願の弟子である。創建当初、浄土宗の寺院ではなかったかとうかがえる。また、寺院として真言・天台・禅・浄土の四宗派の勧学院を立て、学問道場としての基礎を築いた。北条氏の帰依が篤く、長時はこの浄光明寺で没している。元弘三年(1333)には後醍醐天皇の勅願所となり、寺領も安堵した。また足利尊氏は建武二年(1335)、この寺にこもり、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏・直義兄弟の帰依は暑く、寺領や仏舎利の寄進を受けたと古文書にあり、その後も鎌倉公方(鎌倉府の長)の保護を受け、鎌倉公方歴代の菩提寺であったと伝えられている。
三門から真っすぐ石畳を歩く、広い清閑な庭で、左手に客殿があり、その右手に不動堂がある。不動堂は大みそかの日に開かれ、除夜の鐘とともに護摩法要が行われる。石畳を奥に進むと木々の景色に変わり、本堂の阿弥陀堂がある。浄光明寺の諸堂は寛文期(1661~73)に焼失し、本堂は二階堂にあった永福寺の古材を用いて建てられたという。本堂には近年作られた金色の阿弥陀三尊が置かれており、本尊横の収蔵庫に本尊阿弥陀如三尊像(国重文:1299年頃の作)と地蔵菩薩立像が安置されている。阿弥陀如三尊像は宋の(現在の中国)の影響を受け、特に脇待の姿勢や高く結い上げた宝髻(ほうけい)は美しい造形をしている。中央の阿弥陀如来像の衣の装飾には「土紋」と言われる技法が使われており、鎌倉地方独特の仏像様式であり、仏像彫刻の秀作である。また、地蔵菩薩立像は矢拾(やひろ)地蔵とも呼ばれ、足利直義の守り本尊であった。その由来は、戦で矢が尽きた直義の所に子供の僧が走り寄り、拾い集めた矢を差し出した。よく子供を見ると錫杖と矢と共に持つ、日頃信仰している地蔵の化身であったと言われている。
本堂裏手に墓標が立ち並び、やぐらと岩盤を削り落したような石段と山道を上がる。裏山の中腹に由比ヶ浜の漁師の網に掛かったと言われる「網引地蔵」がやぐらに納められている。その上を登ると歌人藤原定家の孫で、歌道の名門である冷泉家(れいぜいけ)の始祖、為相(ためすけ)の墓(宝篋印塔)がある。父の死後、異母兄の二条為氏と播磨細川の相続争いで鎌倉に訴訟を行うため下向した母の阿仏尼の後を慕って鎌倉に下った。この近辺の藤谷(ふじがやつ)に住んでいたらしく、藤谷黄門(黄門とは中納言の唐名)と呼ばれていた。訴訟は長引き、その間鎌倉の歌壇を指導している。
母の阿仏尼は、京から鎌倉への紀行文「十六夜日記」の作者であり、歌人としても名を残している。阿仏尼は極楽寺近くの月影の谷に住んでいたらしい。訴訟は為相の勝訴であったがその時すでに両名は没していた。為相の宝篋印塔の後ろを振り返ると、両脇を山に包まれた相模湾を見る事が出来る。
浄明寺は山の斜面を二段削り平地に客殿、一段目に平地に削ったところが本殿、二段目に平地に削った地に網引地蔵がやぐらに納められている。そして山頂に冷泉為相の墓標が置かれている。拝観される人も少なく、静かに鎌倉らしき景観を残す浄光明寺が私の好む寺院である。