九月一日、妙本寺、鎮守社の蛇苦止(じゃくし)堂で蛇苦止明神例大祭が行われ、檀家ではないが、妙本寺に連絡し、一般での参加の許可を得、例祭に参加させていただいた。明神とは日本の神仏習合における仏教的な神の称号に一つであり、妙本寺が管理されています。前回に岩船地蔵について述べさせていただきましたが、この鎌倉において、数多くの悲しい話が残されています。今回は「扇ガ谷を歩く」の途中ですが蛇苦止明神の例祭について述べさせていただきます。
蛇苦止明神例大祭は毎年九月一日に行われ、月例祭は毎月1日に行われています。妙本寺には何度も訪れている寺院で、私の大好きな景観を持つ寺院です。何度か来るうちに蛇苦止堂について興味を持ち、比企の乱で亡くなった若狭の局を祀る明神様です。電話で「一般参加もよろしいですよ」と気安く言われ、14時から例祭が行われることを知り、出かけた。三十分前に着いたが、もうすでに小さなお堂に二十人ほど来られ、堂内入り口にて記帳、祈願内容の身体健全と家内安全をお願いし、御志納をお渡しさせていただいた。14時になり例祭が始まり、参加者は三十人を超えていた。法華経の経が唱えられる。日蓮宗の法要は初めてであり、他宗との違いを感じた。
蛇苦止堂を語るについて以前、妙本寺で記載させていただいた内容を繰り返させていただきます。
武蔵の国、比企郡の豪族の比企達宗の妻で、頼朝の伊豆時代から子の能員(よしかず)を介して援助し、能員は、二代将軍頼家の子一幡の外祖父として権勢をふるった。建仁二年(1203)二代将軍頼家が重病に陥ると、その遺領分与について北条時政と争い、「比企の乱」が起こる。能員は謀殺され、屋敷に火をかけられ、比企一族の者と幼い一幡(六歳)、は自刃した。妙本寺は北条時政に攻め滅ぼされた比企能員の屋敷跡でであった。一族滅亡後も儒官として幕府に支えていた能員の末子、比企大学三郎熊本が、のち日蓮宗に帰依し、文応元年(1260)、日蓮(日郎とも)を開山として創建されたという。長興山妙本寺の名の長興は能員の法号、妙本は室の法号にちなむ。境内には比企一族の供養塔、二天門近くに一幡の袖塚があり、二代将軍頼家に嫁した若狭局の霊を祀る蛇苦止堂がある。比企ヶ谷の屋敷が炎上し、鎌倉幕府二代将軍源頼家の室であった若狭の局が家宝を抱いて井戸に身を投じたとされている(比企の乱で焼け死んだとする「吾妻鏡の説」と、一幡とともに逃げ延び、二か月余りたった後、北条義時の郎党に捕らえられ殺されたという「愚管抄」の説がある)。蛇苦止堂にある井戸がそれとされ、蛇苦止の井、または、蛇形(じゃぎょう)の井とも呼ばれている。。
蛇苦止堂の由来については「吾妻鏡」に記載が残されている。文応元年(1260)十月十五日、相州正村(北条正村)の息女が邪気を煩、今夕、特にもだえ苦しんだ。比企判官(比企能員)の娘である讃岐の局の霊により祟りをなしていることを、娘に乗り移っている讃岐の局の霊が言った。讃岐局は大蛇なり、頭に大きな角があり、火炎の如き、常に苦しみを受け、今は比企の谷の土中にいることを言った。これを聞いた人々は身の毛もよだつ思いであったという。正村は五十五歳で、建仁三年(1203)の比企の乱から五十七年もの前の話である。正村とその娘はしばらくこの怨霊に苦しめられた。十一月二十七日、今日、北条政宗は一日行を書き写された。これは正村の息女が邪気に悩み、比企能員の娘の霊詫によりその苦しみを助けるためである。夜になり、供養の儀式があった。若宮の別当隆弁を招き唱導師(供養を行う導師)とした。説法の最中、この姫君(正村の娘)は悩乱し、舌を出し、唇をなめ、身を動かし、足を延ばし、ひとえに蛇が出現したようであった。讃岐の局の霊に説法を聴聞するためにやって来たということである。隆弁が加持を行った後、政村の娘は呆然としてしゃべるのを止め、眠るが陽に回復した。その後政村は讃岐の局の供養の為蛇苦止堂を立て、妙本寺の鎮守社となった。
若狭の局と讃岐の局であるが、諸説ある。一つは同一人物で、若狭の局は後に讃岐の局と呼ばれるようになった。二つ目は一幡の母が若狭の局が讃岐の局として正村の娘に取り入ったとされる。三つ目は「比企判官(比企能員)の娘の霊」と言うことで、若狭の局と考えたのか、確証するものはない。境内の蛇苦止の井は、名越の六方の井と繋がっていると言われ、今も蛇が二つの井を往復しているという。井戸に細波が立っている方に大蛇がいるとも言われている。例大祭の日が九月一日になっているのは比企の乱で比企能員が謀殺された命日とされている。
災害の多い日本、特に平安・鎌倉期において災害・飢餓飢饉・疫病に対し、特有の祟り信仰が形成された。菅原道真、平将門、崇徳院の三大怨霊であり、他にもこうして各地域色々と逸話がある。どうにもできない自然災害を祟りとしてとらえ供養することで、集団の復興意欲を作り出す。こうして日本特有の集団主義が形成され、それを犯す者は村八分とされた。またハンセン氏病において、村域を離れるため巡礼に出す。また、寺領において悲田院を作り、患者を収容させた。この鎌倉においても極楽寺の忍性上人が寺領に悲田院を作っている。
苦止堂は昨年の夏の台風で銀杏の大木が倒れ、祠と蛇苦止の井の間に倒れた。幸い枝部分が井戸の屋根部分に当たっただけだったが少々傾き新しく作られた例大祭に間に合わせようと努力されたが間に合わず、ほぼ完成しているのでこの秋には法要が行われるようだ。
蛇苦止堂の、こうした話を後世に語り継ぎ、誰もが供養に参加できることが人間の精神形成に重要だと思い、また鎌倉の遺産だと思う。