鎌倉散策 扇ガ谷を歩く 岩船地蔵堂 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

  扇ガ谷は鎌倉時代には亀ヶ谷と呼ばれていた。亀ヶ谷坂の薬王寺を過ぎ、JR横須賀線の傍に来ると辻があり、右側に岩船地蔵堂がある。お堂は現在、臨済宗建長寺派の海蔵寺が管理されている。日本三大岩船地蔵の一つであり、歴史に翻弄された源頼朝の娘、大姫の守り本尊と言われている。

お堂の脇に記されている文

亀ヶ谷辻に建つこのお堂は、古くから頼朝の娘、大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきた。木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女の守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に同を再建し、あらたに本像を造立した旨が示されていた。「北条九代記」にも、許嫁(いいなずけ)とのとの仲を裂かれた姫が傷心の内に亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原などの多くの人々がこの谷に野辺送り(故人のご遺体を火葬場または埋葬地まで運び送ること))したことが記されている。

「このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養した。心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。                                  平成十三年十一月吉日  海蔵寺」

 大姫は源頼朝と北条正子の間にできた初めての子である。生年は治承二年ころと言われているが、明記する文献はない。大姫と言う名は、貴人の長女への尊称であり、実際には別の名があったのかもしれない。寿永二年(1183)七月、倶利伽羅峠で平家軍を破り、先に京に入った木曽義仲(頼朝の従弟)は、その年の春にいったん頼朝と和解するため、長男の源義高を鎌倉に人質として差し出した。大姫の婿と言う名目であった。義高は1173年生まれの六歳で、大姫は1178年生まれ十一歳と五歳違いの歳の差であった。寿永三年(1184)一月二十日、木曽義仲が源義経(頼朝の異母弟で木曽義仲討伐軍の総大将))に敗れ敗死すると、頼朝は義仲の嫡子、義高の謀殺を企てた。それを察した義高は鎌倉から逃亡する。大姫が察知し、女装を装わせて逃したともいわれている。頼朝は追っ手を差し向け、堀親家の郎党藤内光澄によって武蔵入間川の河原で義高は若い命を絶たれた。このことは極秘だったらしいが、大姫が知ることになり、嘆き悲しむ日々を送った。病に倒れ、頼朝、正子は医師に診せ、僧に祈願させるが一向に良くならなかった。頼朝の妹の子である一条高能との縁談も拒絶し、さらに頼朝が画策した後鳥羽天皇への入内の話もあったが、建久八年(1197)七月十八日、二十歳前後で大姫は一期(いちご:生まれてから死ぬまで。一生。一生涯)となったのである。義高の命を絶った藤内光澄は政子が頼朝に進言し、梟首(きょうしゅ:さらし首)された。この大姫の守り本尊がここに安置されている地蔵菩薩であると言われており、その台座が船形をしていることから岩船地蔵堂と名がついた。

大姫の墓は定かではないが勝長寿院に葬られた説と、大船の近くの常楽寺に大姫の塚と言われる姫宮塚がある(北条泰時の娘、姫宮の墓とも言われる)。儀高の墓とされる常楽寺の裏山の山頂に木曽義高塚がある。

 岩船地蔵堂には四年前にも訪れており、頼朝の姫、大姫の守り本尊とは知っていたが、調べてみると、本当に歴史に翻弄された大姫の慟哭の日々を感じ取る事が出来た。これから、このお堂の前を通る時、手を合わせ供養させていただきたいと思う。