鎌倉散策 北野神社 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 七月二十一日に山ノ内の八雲神社で神輿渡御があり、山崎の神社と神輿同士の行合祭が行われることを聞き、調べてみた。鎌倉市山崎の鎮守は北野神社で、鎮座する山は天神山と称される。暦応年間(1333~1342)、臨済宗の禅僧である夢窓疎石が京都天満宮を勧請したと伝えられている。

 夢窓国師は北野神社とともに宝積寺も建立された。廃寺となった宝積寺には十一面観音が安置されていたが明治の神仏分離により昌清院(円覚寺塔頭如意庵の末寺)に移された。宝積寺は応安七年(1374)十一月二十三日に円覚寺大火の為、長老大法大闡が「山崎宝積寺」に移っている。この宝積寺は京都の宝積寺を模して創建されたという。

 北野神社は住居から自転車で十分足らずの所で、住宅の間に細い参道がありる。北野神社と標識があり、両脇の石塔を進むと鳥居があり、鬱蒼とした天神山に登る階段を登って行く。梅雨の間の蒸し暑い中、息を凝らせて、つづれ織りの石段を上がると、最後の鳥居になる。その向こうは広い社殿のある平場になっていた。霊験あらたかな風景であり、少し見ていると蒸し暑さも感じなくなった。

 北野神社は貞治三年(1362)、円覚寺塔頭黄梅院主が再建。村の鎮守となったのは江戸時代以降の事である。延宝年間(1673~1681)、牛頭天王が合祀された。『相模風土記』には天神社について、また合祀の記述が記載されている。「相殿に牛頭天王を祀る(昔は岩瀬村、五所明神に合祀せしを延宝中、山ノ内村の仮谷に迂せし時、洪水の災当を避、当社に捧持し当社の庭中に安置せしが、神託により当社に合祀すと伝)」。江戸時代には州崎神社とも呼ばれ、洲崎は現在の寺分、梶原、山崎、上町の古称とされる。現在の山崎は室町時代から文献等で山崎郷として表示されているらしい。寛政九年(1797)には祭日や神楽などを定められ、それらは現在も受け継がれている。菅原道真没後千年、明治三十九年(1902)(、『菅原千年歳碑』が境内におかれている)、没後千百年債が平成十四年(2002)に壮大な式典が行われた。

 北野神社に岩瀬村の五所明神に祀られていた牛頭天王が合祀されたことで、八雲神社の祭神が牛頭天王で素戔嗚命であるため山崎八雲神社として行合祭が行われると考える。 山ノ内の八雲神社の神輿と北野神社の神輿渡御での行合祭がどのようなお祭りか当日、拝見させていただきたいと思う。

 

祭神:菅原道真、素戔嗚尊

例祭:九月二十五日

境内社:末社・神明宮

神事芸能:鎌倉神楽(例祭)、神輿渡御(本年二十一日。山ノ内八雲神社と行合祭)

宝物:石造宝篋印塔(市文)。高さ1.5メートル。応永十二年(1405)建立(「市指定有形文化財 石造 宝篋印塔 応永十二年銘 一基」と記載された柱が建っている。四方に薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が彫られた珍しい宝篋印塔である。宝積寺の僧教音によって建立されたと言われている。

神徳:業成就、農業(産業)守護、除災招福、必勝将来。

天神山の東側斜面には、縄文・弥生式土器、土師器などが出土している遺跡が存在する。