鎌倉散策 円応寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉街道をはさみ、建長寺の向かい側に急な石段が有り、そこを登ると小さなお堂があり、山寺のような円応寺がある。

別名閻魔堂、十王堂と呼ばれる。人の死後、冥界で出会う十王を祀っている。閻魔像は運慶作とされ、笑い閻魔として人々に称されている。 

 運慶は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した天才仏師である(出征年不明、貞応二年1223没)。奈良円城寺の大日如来像(像銘中に「大仏師康慶の実で弟子運慶とある」)。奈良市の興福寺を拠点とした慶派の仏師康慶の息子で、東大寺の金剛力士像(阿形像)は運慶・快慶の共作として有名であるが、お互いの作風に違いがあるが、写実的で従来の仏師の作とは違った作風である。また、興福寺北円堂弥勒仏像、無著像、世新親像などが有名である。

 

円応寺  臨済宗建長寺派 建長寺塔頭  山号寺号:新居山円応寺, 創建:建長二年(1250)

開山:智覚禅師、 本尊:閻魔王、 寺宝:本尊他鬼卒立像、人頭杖、十王の各木造、木造俱生神座像(国重文)、 木造奪衣婆座像(県重文)

 

 運慶が晩年に病気にかかり、生死をさまよった際、閻魔王に「お前は、生前、ものを惜しみ、欲深いことから、地獄に行かせるところだが、その腕を見込んでわが像を彫り、衆庶にそれを拝ませ、悪心を絶ち、善縁におもむかせるならば、娑婆にもどすが」。運慶は閻魔王のお告げを受け、回復し、閻魔王を彫り進めた。九死に一生を得た喜びで、閻魔王の顔が憤怒の形相の中にも笑顔が含まれた閻魔王になったと云わり、笑い閻魔として人々に称されている。しかし閻魔像の胎内文書には「建長二年出来、永正十七年再興、仏師下野法眼如円、…」とあり、運慶はすでに、無くなっている。また十王像の一つ初江王の胎内名には、「建長三年八月に善観房という人が願主となって仏師幸有が造立」(鎌倉市史史料編)とのこっている。当寺の創建は建長年間であった事が窺える。

 もともと円応寺は現在の長谷、甘縄神社周辺の裏山付近にあったらしく、足利尊氏によって材木座周辺に移されたらしい。[由比ヶ浜大鳥居の東南にある]とされ、由比ヶ浜に注いでいる滑川河口近くに「浜の新居(新井)閻魔堂」と呼ばれる小堂がありここが起源とされる。滑川の下流部分を閻魔川というとしている。元禄十六年(1703)の地震と津波で倒壊したため、現在の地に移されたという。

 十王思想とは人の死後についてインドの「マヤ」が仏教とともに中国に伝わり、道教の影響により閻魔大王を中心とした十王思想になった。十王思想は室町期二十三信仰となり、日本仏教独自の宗派を超えた葬儀、法要のもとになっている。 十王様は仏教で亡者の審判を行う十尊であり、初七日、秦広王。二十七日、初江王。三十七日、宋帝王。四十七日、五官王が厳しく生前の業を取り調べ、五十七日にその結果を踏まえ閻魔王が六道の行き先を決める。六道は天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄がある。本来は七回の審理を受ける。畜生、餓鬼、地獄の三悪道に落ちた者も救済の為に、さらに人間、および修羅にいた者も徳が積めば救済されるようになっている。六十七日、変成王が場所。七十七日、泰山王が男女性別と寿命を決め百箇日には平等王。一周忌には都市王。三回忌には五道転輪王が改めて死者の生前の罪を裁き遺族の法要の様子も見て、来生での生まれ変わりを決めるのである。生前に十王を祀れば死した後の罪を軽減してもらえる信仰もあり、「預修」と呼んでいた。しかし、生前に一つでも徳を積み、また先祖の供養をすることで、先祖が救われ、子孫がそれを受け継ぎ、そして自らも救われるといった教えである。

 この鎌倉では神社仏閣が多く、鎌倉の盆は覚園寺の黒地蔵縁日で始まり、八月十六日には閻魔縁日で終わる。いつまでも、このような教えや行事を大切に大人・子供が一緒になり、盛んに行われる素晴らしい町を残してもらいたい。