北鎌倉の寺院と言えば建長寺がまず有名であり、鎌倉五山第一位の寺である。このブログでは北鎌倉の寺院の東慶寺、明月院を取り上げたが、鎌倉に来て一月が経過したので、今回は恐れ多くも建長寺を述べさせていただく。
私は、食べるのが大好きで、けんちん汁は好物の一つであるが、発祥の地が建長寺の精進料理の一つであることを知ったのは十数年前に初めて鎌倉に来た時だった。鎌倉駅から円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院、建長寺へ伺う。建長寺に伺う頃は、ちょうど昼頃になる。建長寺総門横の点心庵で、けんちん汁を食べ素朴な控えめな醤油味に豆腐、大根、ゴボウ、こんにゃく、彩にさやえんどうの緑が食欲をそそる。よく豚を入れれば、鳥を入れれば、もっと味が良くなるとか言われるが、そうするとけんちん汁ではなく、別物になることを知っていただきたい。そもそもは精進料理である。素材を口の中に入れ育んで頂きたい物である。愚痴をこぼしたようで申し訳ございません。それでは本題に入らせて頂きます。
建長寺(けんちょうじ) 山号 巨福山 こふくさん
宗派 臨時宗建長寺派。 開山 蘭渓道隆。 開基 北条時頼。 創建 建長五年(1253)
わが国で禅宗寺院の本格的道場として創建された。それ以前に唐に二度入宋した、日本における臨済宗の開祖である、明庵栄西により鎌倉の寿福寺や、京都の建仁寺が作られていた。しかし、創建は建長寺より古いが、天台、真言、禅宗の三権額の道場であった。然るに建長寺がわが国初の禅宗専門道場として上げられる。栄西は日本で廃れていた茶の習慣を再び伝えたことでも知られている。
五山制は中国の宋時代(十二世紀後半から十三世紀前半)の五山文化に倣って作られた。南宋五山の寺として、霊隠寺(りんにんじ)、浄慈寺(じんずじ)、径山寺(きんさんじ)、天童寺(てんどうじ)、阿育王寺(あいくおうじ)があった。南宋の都である風光明媚な西湖を擁する、杭州には霊隠寺、浄慈寺、径山寺があった。また、国際的貿易港で、東南アジア文化圏の拠点であった寧波(にんぽー)には天童寺、阿育王寺があり、朝廷から熱い保護を受け、ますます多くの名僧を生み、禅宗が繁栄していった。天童寺、阿育王寺は現存する。栄西、道元らをはじめとする留学僧たちがこの様な中国禅宗寺院で学んでいる。
建長寺開創以前は、この地が地獄谷と言われ、刑場であった。処刑された人の死後の救済の為、地蔵菩薩を本尊とする心平寺と言われる寺があった。後に廃寺となり、地蔵堂だけが残った。建長元年、五代執権北条時頼はこの谷を開き禅寺の創建を計画した。地蔵堂は小袋坂(巨福呂坂)に移したがその地蔵堂も廃寺となり、本尊の地蔵菩薩像が建長寺へ安置された。『吾妻鏡』には、建長五年(1253)11月25日に建長寺の供養が行われ、丈六 (一丈六尺)の地蔵菩薩をもって中尊となし、同種千體を安置」したと記されている。現存の地蔵菩薩像は室町時代のものと考えられる(像の高さは371.5㎝)。横浜の三渓園には心平寺の地蔵堂と言われる建物が移築され、国の重要文化財に指定されている(慶安四年 1651の建物)。また、地蔵に関する伝承がもう一つある。斉田左衛門が無実の罪でこの地獄谷で斬首されることになったが、役人が何度刀を振り落としても刀が折れてしまう。左衛門の首を調べてみると、髻(もとどり)の中から小さな刀傷の付いた地蔵像が出てきた。左衛門は地蔵尊を信仰していたらしく、深い信仰心に免じて斬首は中止になり、許されることになったといわれる。
この小像は心平寺地蔵の頭に納められたのち、建長寺の本尊地蔵の胎内納められたと伝えられている。鎌倉二十四地蔵の一つと数えられ、斉田地蔵と呼ばれている。斉田地蔵は「宝物風入」(毎年11月3日から3日間)の際に拝観できる。
本尊に本来、如来、聖観音を祀られていることが多いが、地蔵菩薩を祀るのは珍しい。
開山である蘭渓道隆(1213~78)は西蜀の生まれで、宋の臨済宗の禅僧である。諸国を巡回した後、臨済宗揚岐派の無明慧性(むみょうえしょう)について悟りを開いた。当時、南宋はモンゴル軍脅かされており、入宋していた京都泉涌寺東迎院主月翁智鏡(げつおうちきょう)の勧めで、中国宋の厳格な禅宗普及を理想に描き、寛元四年(1246)に日本に渡ってきた。道隆、三十三歳の時である。その後、1279年、南宋は杭州湾の崖山で元軍に撃滅され、完全に滅びた。道隆六十六歳で没した次の年であった。道隆は博多、京都をめぐり、宝治二年(1248)に鎌倉へ下向、寿福寺に掛錫(かしゃく:寺僧が他の寺にたいざいすること)、それを聞いた北条時頼は是非にと常楽寺(現大船)に従事させて、自ら参禅した。高名な蘭渓道隆の事は鎌倉の僧の知るところにより、多くの僧が参集した。時頼は中国様式の禅苑の創建の必要性を感じ、建長寺開創されることになる。
建長寺の伽藍配置は中国南宋五山の第一位の径山万寿寺を模して造られている。現在の建物は江戸期の物である。緑の樹木に覆われた山懐に細く伸びる谷戸の斜面に各建物が配置されている。山岳寺院形態には共通性があり。三門、仏殿、法道、方丈は一線に並び、左右植栽を施されている。
日本の五山諸寺が中国五山を基に範とし、創建された。壮大な伽藍を構築するのに足掛け三年を費やしている。建長五年(1253)の落慶法要が行われているが、仏殿竣工と考えられる。建長七年(1255)に梵鐘の鍛造は記載されているが、そのほかの造営は定かではない。
正応六年(1293)四月十三日に「鎌倉大地震」が起きている死者二万三千余人に及んでいる。この地震で建長寺の堂宇は崩壊・炎上している。『吾妻鏡』『神明鏡』『南朝記伝・鎌倉大日記』『鶴岡社務記録』の記録から鎌倉大地震の記述を見れば、140年ほどの鎌倉時代に55回を数える。再建しては倒れ炎上を繰り返した。この鎌倉時代、自然災害が非常に多く、禅宗以外にも後に、新興宗教として日蓮上人の日蓮宗、一遍上人の時宗が発展していく。
武士の都、鎌倉では幕府創建後から禅宗が庇護を受け、栄えた。従来の南都、天台、真言、の寺院は 。鎌倉時代の経過により、鎌倉新仏教と呼称される、六宗派が浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗で、各宗派がそれぞれ時代の要望により推移していく。当初鎌倉では、天台宗、真言宗の寺から始まり、禅宗が栄え、そののち浄土宗、日蓮宗、時宗、の寺が創建されていく。
平安時代に天台宗、真言宗が国家鎮護、貴族社会の仏教として変遷していった。平安時代後期に民衆の仏教として、高野聖の真言宗、専修念仏の浄土宗が盛んになり、鎌倉では武士にふさわしい仏教が求められた。
鎌倉は武士により作られ、陰謀と殺戮を繰り返し、最終的に北条氏が権力を掌握していく。その悲惨な悪業の許しを禅宗に求めていったのかもしれない。禅宗は難解な教義、経典や言語によらず、座禅による以心伝心によって布教しようとする教義は従来の宗教に満足できなかった武士たちに幅広く受け入れられる要素を持っていたのかもしれない。
山号は門前の 巨福呂坂にちなみ巨福山。地名を創建年の年号に由来させ建長寺とし、惣門の扁額に巨福山とあげられている。
この扁額は建長寺十世住持で所の名手の渡来宋の一山一寧の筆と伝えられ「巨」の字の第三画目の下に、余分な「点」が付け加えられそれにより字の安定感が出るとされている。
国宝は絹本淡彩蘭渓道隆像、大覚禅師墨蹟法語規則、梵鐘があり、重要文化財は三門、仏殿、法堂、、昭堂、唐門、大覚禅師塔など多く存在する。
私はまだ半蔵坊まで行ったことがないが、いずれ、訪ねてハイキングコースを歩きたいものだ。長くなり申し訳ございません。まだまだ各項目を残しますが、このあたりでお開きとさせていただきます。