人間の自由とは 物理的には限定的であるにもかかわらず | 酒井カロウのおそまつくん春日記

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日常生活の気付いたことなどを記事にしてご紹介します。宜しくお願いします。

 これは私ごとくが言うまでもなく、凡夫が認めている貨幣価値すなわちお金で他の物理的価値に変換して利用しているのです。

 ただし、その変換効率は完全ではありません。

 お金で人間が必要とする空気・水・食糧を交換しています。

 お金で居住空間や生活環境を手に入れています。

 お金で衣服を手に入れています。

 また時間や利便性もいまやお金である程度手に入れています。

 また権利もお金である程度手に入れています。

 また義務もお金である程度賄っています。

 また信用もお金である程度得ています。

 また地位や名誉も学歴と同じようにお金である程度得ていま  

  す。

 

 そのお金は、どうやって手に入れているかといいますと、

 時間に労働を加えた付加価値によってお金を得ています。

 

 しかしながら、お金の価値もものの価値も人間が生きている間の認識でしかありませんから、人間の意識が消えた時、一瞬にして消えてしまうのです。

 ですから、お金に固執したところで、いくらでもお金を集めたところで、それが生きていることの必要十分条件でないわけです。

 今までの膨大な人間と将来も膨大な人と生き物を生かし続けるほかの絶対的何か、創造主的神でなかったら、それはあとは仏しかいないとなるわけです。大宇宙には無数の小宇宙があり、またそこに多数の諸仏がおわしますとなれば、その中心的存在に唯一阿弥陀仏のみ存在し続けるというのは浄土真宗では自然な流れです。

 本当の自由とは、ものの価値に限定されない計り知れない生死を越えた何かと思われます。