■静岡のお茶の香りがつなぐ日韓新時代の幕開けを!≧∇≦)〃♪ | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!

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ポッドキャスト韓国語マガジン“サランヘヨ・ハングンマル”の編集長が、韓国と韓国文化の見つめ方を伝授します。

今回の静岡の議員団の方にいただいたお土産。静岡のとても高級なお茶セットですね。*´ヮ`)/



●朝鮮の傷癒した静岡のおもてなし


今日、無事日本に戻られましたが、今回、私が同行して日韓の歴史と文化の違いについてお話をさせていただいたのは、静岡を拠点とする議員の方々らの韓国視察ツアーでした。昨年10/31に、静岡県をはじめ12の都道府県と韓国の釜山文化財団が、日韓共同で申請した、111件333点の「朝鮮通信使記録物」が、ユネスコの「世界記憶遺産」に登録されたことを受けての企画ですよね。


何より静岡は、秀吉の朝鮮侵攻後の深い傷跡の中、朝鮮との国交回復を成し遂げて「朝鮮通信使」到来を実現した徳川家康が、自らの駿府城で第1回の通信使たちを迎えてもてなしたという土地です。すなわち、1607年、最初の通信使470人が、6/29に江戸で2代将軍秀忠に会見した後の帰路において、駿府の地で家康から手厚いもてなしを受けているわけです。間違いなく静岡の美味しいお茶も、彼らの心を癒したことでしょう。


そのように、まさに日韓関係の困難の時にこそ、静岡がその関係改善の先駆けになろうということで、「21世紀の朝鮮通信使」実現のための一歩を記した企画だったと思います。


ちなみに昨年9月には、川勝平太・静岡県知事と李俊揆(イジュンギュ)・駐日韓国大使が対談を行い、とても真摯に両国の親善を話し合って『毎日新聞』の紙面を輝かせたということで、それも読ませていただきましたが、まさに日本の、特に静岡の「おもてなし」の精神が感じられて感銘を受けましたよね。



●「白村江」に1万人も派遣した静岡


また、今回のツアーのもう一つのテーマが、「白村江の戦い」跡地の視察でした。韓国では「白江戦闘」といいますが、静岡県は「白村江の戦い」の跡地として最も有力な「錦江」が流れる忠清南道と友好提携をしているのだそうです。今回行った忠清南道の公州と扶余は、共に百済の首都であり、扶余は百済の聖明王が日本に仏教を伝えた地でもありながら、百済が唐・新羅連合軍と戦って、31代の義慈王によって敗北を迎えた地です。


この「白村江の戦い」は、大和朝廷が、日本に住んでいた義慈王の子である余豊璋を新たな百済王として立て、斉明天皇以下、朝廷を挙げて九州の朝倉宮まで繰り出して、42,000もの大軍を派遣したというものです。当時はまだ、「大和政権」であり、「日本」という国ができる以前ですから、それがどれほど大きな出兵であるかが分かります。しかも、661年には斉明天皇が出先の朝倉宮で崩御するという悲しみの中で、皇太子の中大兄皇子が中心となって出兵を断行しています。


そして、日本書紀には、その戦いの途中、百済王・豊璋がその年の8月、「今聞くに、大和の国の救いの将・廬原君臣(いおはらのきみおみ)が、屈強の兵1万あまりを率いてまさに海を越えてやって来るという。もろもろの将軍たちは、あらかじめそれを考慮すべし。私は自ら出かけて白村江において待つだろう」と語ったという記録が載っています。


この「廬原君臣」が誰かといえば、静岡市清水地区を中心とした廬原国造であるわけです。彼らがなぜ、国家体制もないこの時代に、わざわざ当時の東の外れから1万もの大軍で駆けつけたのか――が謎であり、今回それを議員の方からも質問されました。


その方は他に、とにかく静岡には「焼津」、「沼津」、「興津」、「鷲津」と、「津」で終わる地名が多いということもおっしゃっていました。港ですよね。そこから思いはかるに、おそらく静岡には、清水港を拠点とした海洋航行の高い技術があって、海の向こうの敵と戦う時に駆けつけたのではないか。さらには、日本書紀に、廬原国造の先祖である吉備建彦が、「日本武尊」の東征の際にも副将として彼を助けて戦い、蝦夷征伐の功によってこの駿河国に封ぜられたとあるのですが、そういう大和朝廷の「救いの援軍」としての勇猛ぶりでならした地域だったのではないか、ということですよね。



●日本と韓国の出発は「白村江の戦い」


ということで、この「白村江の戦い」は、何が重要かといっても、日韓両国自体の出発点であるといってもいいわけですよね。まず、韓国においては、①百済復興運動が事実上の終わりを迎えたことで、新羅による半島統一の流れが明確になります。②多くの百済流民が日本に亡命し、また668年に滅ぼされる高句麗の流民も日本に大挙して亡命する流れができたことで、半島新羅と日本という両勢力が形成されるわけです。


日本においては、①歴史上初めて日本と中国が衝突し、②古代日本の勢力が半島から完全に退き、③中国及び朝鮮半島との関係における自衛性と閉鎖性が固まり、⑤国家としての中央集権的律令体制が必要となって、⑥日本という国が成立した、ということになります。実際、この翌年から百済人を中心に、対馬から九州、瀬戸内海を通って近畿地方に至る道に、韓国式山城が数多く建設され、中国や半島が攻めてくるかもしれないという危機意識の中で、日本の出発がなされていったことが分かります。


要約すれば、まさに「白村江の戦い」という事件で、日本と韓国という二つの国が出発するようになったのでした。


ということで、私自身が整理しながら長々と書いてしまいました。ちなみに、最後に今回、お土産として静岡の本当に美味しいお茶をいただきましたが、このお茶もまた静岡と百済をつなげるものであるということに、家でゆっくりそれをすすりながら気づきました。すなわち、日本で美味しいお茶が知られ、生産量も46%で第1位なのが静岡であるならば、韓国で美味しいお茶が知られ、生産量も同じく46%で第1位なのが、全羅南道の「寶城(ポソン)」、まさに百済の地なんですよね。


「寶城」には日本旅館などもあるため、私たちはうっかり日本統治時代の影響なのかと勘違いしやすいですが、しかし、『寶城郡史』などの文献をみれば、ここは369年に馬韓から百済に統合された時にも、すでにお茶を土産品としていた、ということが出ています。茶栽培の歴史が軽く1600年を超えているわけですが、まさに大昔から百済の名産の一つがお茶だったんですね。


ちなみに、369年というと百済11代の近肖古王の時代であり、5世紀初頭にこの百済王が王仁博士を通して『論語』と『千字文』を伝え、日本に文字を伝えた、と『古事記』に書かれています。もしかすると、王仁博士もお土産に百済名物のお茶なんかを持ってきていたかもしれませんよ!ヾ(≧∇≦)〃♪



「茶の湯」、「ひとこと」だそうですよ。



まさにお茶の精神、「和敬清寂」ですね。



我が家には日本の急須がなく、もっぱらこの韓国の道具でお茶を入れています。



コーヒーカップではお茶に申し訳がない!湯のみを急いで買ってこないといけませんね。A^0^;



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