よく働く人で「精神論を出すな」という言葉を聞いた事はないだろうか?

 

実際の世界、この世の中。

 

人間社会においては全てが精神論である。

どんな物にせよ人間の精神があるからこそ存在するものばかりだ。

 

天然とされるものは人間が生息するずっと前から存在するものの「有る物を利用する」事に関しては人間は天才的である。


例えば自動車にしろ、「移動範囲が広くなる」「時間短縮」などの利点などから大量に生産され今では人によっては無くてはならない物になり、生活の糧になっている。

 

しかし、この自動車が発明された切っ掛けと言うものも人間の探求心や興味といった「精神」から成り立った物だ。

 

「皆さんにいい生活を」と言う考え方がそもそもの原点である。

 

今では当たり前のようにお金を出せば買えるかもしれないが何故出来てどうして存在しているのかを考えない人間のほうが遥に多いだろう、このような事が増える事によって同じくまた、精神論という大事な何かを見失ってしまうのだろう。


今ではオートメーション化と言って人間の力を借りず、出来るだけ高速で淡々と作業をこなすロボットの活躍が著しく増えている。

ロボットは感情、つまり精神を持っていないので文句を言わない。それに人件費が掛からず、壊れた時のパーツ在庫の保持や電気代だけ確保すれば24時間365日稼働可能となるからだ。

 

そもそも嫌な気持ちをする為に仕事をするわけでもないし、イライラする為に出社している者は居ないだろう、しかし会社にいる時間が億劫になるのは何ともおかしな考え方である。

 

このロボットもまた、人間の精神から開発され社会に浸透してきた物でしかない。人間のように閃きもないから新しいアイデアなど生み出す事もない。それが機械と人間の差だ。


しかしながら仕事で精神論を語るなと言う持論の持ち主は全てが精神で出来ている事に理解を寄せていないからなのだろうか。

 

 

精神論を嫌がるのは何故か。

 

これについては様々な討論を今までなされてきたようだか。。。。

そもそも精神・感情の使い方を間違っている人間のほうが多い為に否定的になりがちなのだろう。

感情の使い方を語弊している者は会社やその他の人々に大変迷惑になるような使い方しか知らない。

それは、その人が悪い人だからと言う意味ではなく、そもそもの理解が不足しているだけに過ぎない。


間違った解釈をする人に対して精神論を語らせてしまうと人間の秩序さえもぶち壊しかねない、だからこそ精神論や私情を仕事に持ち込んではいけないと考えるのだろう。

 

ここで理解しなければいけないのは、周囲の動きにどのように関わり自分が存在しているのかを深く理解しなければならない。


日本社会では私情を持ちだす事は未だに水面下でタブー視されている事だろう。それは何故か?

 

前日夜更かししてしまい寝不足によって仕事を行うといった人物がいたとしよう。

 

夜更かしは私用であり仕事では無い、次の仕事に支障が出るような生活だとすると会社から見ても大変危険な人物でしかない、自由な時間の過ごし方は勿論本人の自由ではあるものの、疲れによって事故や失敗に繋がる可能性は大いにあると言う事だ。

 

このような人物は内心仕事が嫌いや面倒だと考えている者が多いのも事実であり、嫌なら休むか辞めるかすればいいだけだろう。仕事が好きになる努力をするのも精神論の1つである。

 

嫌な仕事を嫌々やると言う者もいるが、誰かがやらないと片付かない。

仕事を断るのも1つの仕事だが、嫌な仕事を好きになる努力をするのも1つの仕事である。


精神論を受け入れてしまうと、未熟な精神の持ち主が大暴れし好き放題、やりたい放題になり会社、社会の秩序が乱れてしまうからこそ精神論を持ちだしてはいけないと考えるのだろう。

 

こうしたマイナスな感情により、精神論というものが悪いイメージへと変化したものなのだろう。

 

 

精神とは

 

そもそも、一般的に捉えられている精神とは物理の話と混同している事が多い。

大事な物が壊れると落ち込むし、自分の物が盗まれると怒りを生み出す。

しかしながら大事にしていた物が壊れた「物」は痛い!とも言わないしあ~あ残念。。と落ち込む事もない。しかし人間はそれを見て感情を揺るがしてしまう。

 

自分の物が盗まれて怒りを振り回す者もいるが、盗まれた「物」はさようならも言わないし、早く探してくれ!とも訴えない。しかし人間はそれを見て怒りをあらわにしてしまう。

 

自動車に乗る際にエンジンの掛かりが悪いと「今日の車の機嫌が悪い」と感じる人間もいるかもしれないが、ただエンジンが温まっていないからエンジンの掛かりが悪いだけだったりするが人間はそれを見て感情を揺らす。


精神とは人と人との繋がり、そして言語や動作が共通していて互いが理解出来る・理解しあう為のものであり、生物以外の「物」には通用しない。


死んだ者が成仏せずにこの世を徘徊している。。。。これも気持ちの問題だろう。

 

酷く洗脳されれば、毎日のディスクワークで肩がこって肩が重くなれば何かにとりつかれていると勘違いする。

 

怖い映画を見て感化されれば夜中にトイレも行けなくなってしまう。自分は恐怖を抱いているがそれを取り巻く環境は何ら変化がないと言うのに。


そう、自分ではわかっているけど、それが実行出来ない。。どうしてだろう。。。   単純に、考えているだけで決断実行していないだけである。


勿論ハッピーな気持ちで街中を歩くと良い事があるし、アンラッキーな気持ちで街中を歩いているとアンラッキーになるのも当然の事である。

 

友人に何かを相談して気持ちが晴れても次の日にはまた落ち込むのは、相談したいわけではなく。単純に自分の話を無駄に聞いて欲しいだけの欲求不満なでけである。


他にも山ほどあるだろうけど、間違った感情の使い方が多いからこそ容認出来ない事が多々ある。

 

これは人間社会においてとても悲しい事でもある。

 


無限大


精神には他にはない素晴らしい能力が備わっている、それが閃きや気付きと言うものだ。

相手を思いやる気持ちや工夫があれば1つの会社を作る事だって出来る、それ以外でも新しいアイデアや新しい世界観を生み出す事も容易だ。

 

これに気付き理解するために僧侶は日々瞑想に浸る。

 

頭の中では無限に世界を広げる事が可能だ、しかし日本人はこれをふさぎこみ自分自身の可能性を自らドンドン潰してしまう。

 

世の中には良い人もいれば悪い人もいる。

 

しかしながら良い人の心の中にも悪は存在し、悪い人の中にも善良な心は存在する。それが人間だからだ。

 

精神論の可能性は無限大だ。

 

この可能性を1人1人否定しないでほしい。

 

この可能性の大小とは、今まで生きて来て何を感じて何を学び、どのように考えてきたのかで大きく変化する。

 

つまり、学びを得ていなければ閃きのレパートリーも少ないし、思いやりと言う名の気付きにも乏しくなってしまう。

 

可愛い子には旅をさせろと言う言葉があるように様々な経験を得て自分自身の可能性を無限大にしていきたいものだ。

 

かなり大雑把な説明ではあるが、少しでも共感出来るのなら今すぐにでもやりたい事を実行して頂きたい。

 

 

脳内のニューロン

ニューロンとはご存知だろうか?

 

これは人間以外にも「脳を持った生物」全てに共通するものだ。

 

簡単に言うと頭の中の細胞組織が電気信号で繋がっているようなもので、もっとわかりやすく言えば今のインターネットみたいなもの。

 

1つの記憶を貯蔵している細胞と隣の細胞がどんなふうに繋がっているか

 

思い出したいけど思い出せない。。。と言うのは今の記憶の場所からすこし遠い所に記憶を貯蔵しているから思い出すまでに時間が掛かったりする。

 

この速度を早くする為の訓練は勿論あるが、ここでは省略。

 

イメージとしては全てが繋がっていると言うのはこのシステムのおかげである。インターネットが大きくなった理由もまた、人間の脳内ニューロンの方式に類似するからだろう。

 

何を言いたいかと言うと、人間は全て繋がっているようなものだと言いたい。

 

例えば、街中で歩いていて全く見知らぬ人が通り過ぎたとしても、それは本当に「全く見知らぬ人」とは言い難いと言う事だ、友人の友人かもしれないし、はたまた親戚の友人の親かもしれないし子かもしれない。

 

親戚の親戚の子かもしれないし、小学校の先生の孫かもしれないし友人の親戚の親の子かもしれないと言う事だ。

 

これを共存共鳴の法則と呼ぶ。

 

勿論、目で見ても繋がっていないように感じるかもしれないが、必ずどこかでつながっている、脳内のニューロンのように。

 

これを理解すれば、人間同士で争う意味や、喧嘩する理由、怒りを振り回す事など全く意味がなくなるだろう。

 

つまり、感情をコントロールする1つの極意でもある。

 

精神論とはそのようなものであり、自分の我儘の感情や身勝手な精神の動向ではないと言う事だ。


嫌みを言う人間を嫌うと言うのは一般的かもしれないが、嫌みを言うような人間になってしまった切っ掛けや理由も必ずその人間の真意の中に眠っている。

 

悪い事をする人間も悪い事をしてしまう理由が必ず眠っている、それは「お金が無いから、単純に人を殺したかったから」と言うような事の理由ではない。

 

嫌いを好きになる、好きを嫌いになる、様々な概念が創作されているが、それも全て人間には精神があるからだ。

 

結局な所、裏も表も自分で決めている。

 

だからこそ自分にとって、そして他人にとって良い概念を取って自分の概念にするのが良い人生の歩み方だろう。