これは自分が不幸だと考えるあなたへのメッセージだ。

 

誰でも観覧出来るし特にビジネスでもなく完全無料な記事と言う事なので、長ったらしい回りくどい長文ではなく簡略化した内容とする。(それでも長いと感じる人はいるかもしれないが)

 

書き方がかなり上から目線になってしまうが、これもネガティブな思考に惑わされず活気付いて欲しいからである。

 

そして読んでいてイライラしたり不快な感情になった場合、まだまだネガティブ思考だと言う事に気付いて頂きたい。

 

最初から簡単に、そして単純に述べてしまうと。

 

不幸は誰のせいでもなく【自分自身が招き入れ、そして引き寄せ、そして自分自身で不幸を作っているから】である。

 

それに神様が幸せを持ってきてくれるわけでもない、神様は人間の脳が創造したものだ。メイドでなければ執事でもなんでもない。

 

魔法使いがどこかで見ていてあなたが不幸で可哀想だから幸運にしてあげると唐突に表れあなたを幸運にしてくれるわけでもない、それは映画の見過ぎなのかもしれない。現実に起こってしまうとちゃんとアポを取って許可書出せって事になってしまう。


運とは奇跡的な物事や偶然が重なった自分ではコントロール出来ない部分だと大勢の人間が考えているかもしれないがそうではない。

 

考え方で変えていく事が出来るし、考え方が変われば行動も変わるからである。不思議な事でもなんでもないという事だ。


因みにこの記事は「不幸でもいいや」と開き直っている人が読んでも全く意味を成さない。そんな人は不幸街道をまっしぐらすればいい。自分で決めたのだから誰も否定しないし、否定する権利もない。

 

この記事は「自分は不幸だけどなんとかしたい」「不幸だと思ってしまうけど変わりたい」と考える人のための記事だ。

 


自分で作る不幸。


例えば一般的なもので言えばギャンブルだろう。完全な趣味で勝ち負けが関係なく勝っても負けても笑顔で帰れる人はそう多くはないだろうが、そのような感覚でやるには全くもって問題は無い。

 

私はギャンブルを否定しているわけではない、ここで勝ち負けに拘り【お金を増やす】という考え方で店に入る事じたい阿呆だと考える。

 

そもそもの期待値が低すぎる市場で専門的な計算式もたたかずに【勝てば今日はラッキー】と考え、勝てば機嫌がよくなり負ければ機嫌が悪くなる人もいるが、そもそも【勝つ確率が低い所】へ自ら足を運び勝ち負けを考える事自体が阿呆だと言うのだ。

 

何故勝つ確率が既に低いかどうかは気になるのならあなた自身で調べて頂きたい。

 

勝ったらハッピー、そして暗黙のルールがあり勝った日は友人にご飯をご馳走する。この行いの何処が幸運なのだろうか。。通算ではマイナスなのに。

 

負ければアンラッキー、そして不機嫌を周囲にまき散らす。その思考や行動そのものが不幸を招き入れている事に気付きもしないのは致命的な問題である。

 

ギャンブルに依存するかしないかは自分次第だがパチンコの台を叩いているようではまだまだ子供の地団駄のレベルなのだろう。

 

 

人生勝ち負けだけではない。


恋愛にしてもそうだ、同性愛でも異性愛でも同じでお互いがお互いを尊重し認め合う事で成り立つ関係性だ、フラれたから、離婚したから、パートナーが逃げた。

 

どちらにせよ【どちらかに問題があったわけではない】両方に問題があったからだ。あいつが悪いだの性格が合わなかったなどと言う人もいるがそもそも論外である。

 

それは現在の状況、互いの心境などが関係している。もっと掘り下げれば幼少期からどんな経験をしてどのような考え方や行動をとっているかが関係してくるだろう。

 

そもそもの原因は【既に知っているはず】それなのにどうして?どうして?と考えてしまう、単純に自分自身が自分に対し何も気付いていないだけである。

 

相手がどうのと考えがちだが、本質は自分がどうのであるにも関わらずなんでも人の責任に押し付ける考え方が不幸を招く。

 

別れた後はどんな言い訳でも出来る。安定や平和。この言葉を勘違いして溺れ切ってしまうからこそ自分を磨く事を忘れてしまう。そうなってしまえば後の祭りでしかない。

 

依存や執着に囚われてしまうと周りが見えなくなってしまう。

 

恋愛や結婚にも勝ち組や負け組などの言葉を使ったりするが論外である。玉の輿や逆玉の輿という考え方でたまたま掴み取った【まやかし】をハッピーと考えるのも少なくはないかもしれない。

 

しかし、倫理観が異なる土俵の中へ飛び込む事は後に膨大な努力が必要になってくるのは言うまでもないだろう。先に楽を取るのか苦を取るのかの違いでしかない。

 

良い相手を探すのではなく、良い自分を作っていく事が本当の人間関係を美しくする秘訣である。結局な所、「愛」とは何なんだろう?から始めるといいかもしれない。

 

勘違いしてはならないのは【愛】というものは形もないし正誤はない。そして恋愛だけに使うものでもない。

 

私が言っている愛とは辞書で教えてくれるような単純な物ではなく、優しさと厳しさなどを総合的なバランスを指す倒れてもいいやじろべえみたいなものだ。

 


ネガティブの連鎖。

 

人間はネガティブが大好きだ。

 

これはきっとネガティブになりたいからなのだろうと考えた時期もあったが、そうではなかった。

 

テレビのニュースでも8割がたネガティブな話題が多い、そしてネガティブに教育された親は子供に危険な行為やいけない行為から教えたりする。

 

日本人は特に良い事を大袈裟に褒めたたえ喜ぶ事が少ない、それでいてネガティブな話題になると敏感に反応しそれを批判し人を責め立てる、そんな考え方だからこそ不幸を自ら招きいれている。

 

小さい頃からネガティブ教育を知らず知らずに受けているという事だ。基本的にネガティブにならざる負えない環境だからだ。

 

親の言い付けで「危険だからやってはいけない」という事に対し子供は言う事を聞くのだろうか?

 

言う事を聞くように子供を育てた場合、モルモットを作っていると考えるべきだ。ようするに大人のおもちゃだという事になる。

 

言う事を聞かない子供になった場合、探求心があり興味で行動をする。そこで痛い思いをすれば大きく学習する事だろう。

 

さて、どちらがいいのかは親が決めるべき所ではあるが親が上で子が下だとは考えないほうがよい。何故なら親子とは共に成長すべき関係性なのだから。学習力は圧倒的に子供が上であるし人生の時間の残量も親よりはるかに多く保有している。

 

間接的にも、直接的にも子供の時間を壊しているのは大人だと受け入れるべきだろう。

 

時間を壊された子供が大人になりその大人は同じように子供の時間を壊してしまう、正直言って開いた口も塞がらなくなってしまう。

 

【そうなってはいけない】と考えるのではなく【そうなりたくない】と常々肝に銘じるべきだ。

 

だから日本語は難しい。

 

共に成長すべき点は子が成長したのを確信した親は喜ぶ。その喜びこそが親の成長の源である。それは悪い事をした時でも、良い事をした時でもだ。

 

 


ほとんどが運任せ

 

 

私の理論に「うんこ理論」と言う非常にダサいネーミングの理論がある。

 

これは道端をあるいていて犬でも猫でもどちらでもいいがウンチを踏んでしまった時の考え方によって自分自身がネガティブなのかポジティブなのかを理解する論理である。

 

あなたが道を歩いていたとしよう、道にウンチが落ちているのも歩く場所にもよるだろうが確率的にはウンチが落ちている事じたいが低い確率であるが発見したらわざわざ踏むのか避けるか。

それでいて道に落ちているウンチを見つけた場合、誰もが避けて通るだろう。

 

要するにだ、ウンチを踏むと言う事はかなり確率が低い状態で起こったいわば奇跡的な現象だ。それなのにほとんどの人がウンチを踏むと「最悪だ」「今日はアンラッキー」「汚い・キモイ」とわざわざネガティブな思考を取ってしまう。

 

低確率の宝くじが当たったら喜ぶくせに、低確率のウンチを踏めば落胆するのはおかしな話だ。

 

誰しもが見れば避ける、そもそも踏まれる事が少ない所に自分が足を踏み入れたのにだ。これは大変幸運(ウン)な事ではないだろうか。

 

自分の不注意により踏んだだけの話だが足元を注意して歩いてもいないのにウンチを踏めば最悪な気分になるのはおかしい、踏みたくないのなら足元を常に注意して歩くべきだ。

 

踏みたくないのに足元を見ないで歩いている。その行為そのものが【運任せ】だと言う事だ。

 

そう言うと殆どの人が真下を見た状態で歩き出す。もう目も当てられない。

 

下を見ながら歩くと言うのはネガティブ思考の人がとる典型的な行動法則である。真正面を見て歩いても数メートル先のウンチくらいは見えるはずだし発見が早ければ回避は容易に出来る。

 

そんな考えをしているからスマホを見ながら事故に合う、不幸は自ら招いていると気付こう。

 

 


口は災いの如し。

 

口は災いの元だという言葉もあるがそんな事は無い、ネガティブな人はほとんどが【ネガティブな捉え方】をしている。

 

実際、言って良い事と悪い事があるわけでもない、何故なら人によって良い事と悪い事が異なるからだ。

 

ネガティブな人へは良い事を言っても同じ事で、相手が褒めてもけなされていると捉えてしまう事だ。

 

愛のある人はこれを指摘してくれるが、1000人中に1人巡り会えるかどうかの確率かもしれない。身の回りに既に2人以上いたのならあなたは紛れもなく幸せ者と言う事になる。

 

物は言いようだし物は解釈のしようだという事に気付くべきだ。

 

「鼻毛出てるよ」学校でも職場でも家の中でも言われたら恥ずかしいかもしれない、ネガティブ思考の場合、鼻毛がどうのより周囲から恥をかいた、恥をかかされた。今日はアンラッキーとわざわざマイナスなワードで考えるだろう。

 

しかし鼻毛が出ているのに気付いていなかったのをわざわざ失礼招致なのにそれを知らせてくれた人に感謝すべきではないだろうか。それは男性であっても女性であってもだ。

 

最短で自分が鏡を見て気付くまで、それよりも知らせてもらいすぐに鼻毛を切ったほうが恥ずかしい姿をさらす時間を短縮できるではないか。

 

しかしながら通りすがりの人や普段接している人でも鼻毛をいちいちチェックする人や気付く人は少ないのが現実だ。(気付いてくれる事じたいあなたを見ていると言う幸せ者である)

 

口は災いの元になるかもしれないが、マイナスをプラスに転換する知恵をネガティブな人は知らない。

 

口のききかたに拘る人は思考幅が狭い考え方の持ち主である事を証明する。

 

言葉の解釈を間違え自分を陥れる方向に走った場合、元気がなくなってしまう。

それこそが自身の行動力を奪い不幸を招いている根源である。

 

 

あなたは不幸ではない。

 

断じて言おう【あなたは不幸ではない】、「自分は不幸だ」と考える事が出来ている事じたいが幸運ではないか。生きているではないか。

 

生きていると言う事は自分は変われる時間があると言う事になる。

 

変わりたくないと言うのなら身もフタも無いが、本当に変わりたくない人はここまでこの記事を読まないだろう。それでも言うのなら自分に嘘をつくのはもうやめたほうがいい。

 

人任せ、運任せではあなたの幸運は来ない。自分自身で幸運を作らなければならない。

 

「あぁ~大変だなぁ」「あぁ~面倒だなぁ」そう思うのなら不幸な自分であればいい、誰も否定する権利もないし、皆が相手にしなければならないという権利もない。悪口を言われても放っておけばいい。悪口を言う人は元々理解力が足らないネガティブな人だ。

しかし後悔は先にはたたない。

 

未来の自分を見て後悔しようものなら面倒かもしれないが自分の幸運作りをすべきだろう。

 

身体が不自由だから、病弱だから、不細工だから、アレルギーがあるから、自分の力ではどうしようもない事だってあるがこれはネガティブやポジティブには全く関係がない。

 

むしろこの身体的なハンデとも言える状態から喚起して素晴らしい人間になる事のほうが多い。

 

人へ言い訳をしてもいいが(あまりよくはないが)自分自身に言い訳をしていてはどうにもならない。

自分を信じ、出来ると信じれば可能性はもっと大きくなる。

 

そして行動出来れば更に可能性は無限大となる。

 

辛と幸は紙一重、たった一本の線をプラスにするかマイナスにするかで人生は大きく変わる。

 

 

 

これを知っているだけではいけない。

 

理解しなければいけない。