「……分かった」
長い沈黙のうち、文子が口を開く。
「あそこからでも、ええやろか」
文子はバルコニーに顔を向けた。
「いいんじゃないか?チョウならこのくらいの高さ、ちょうどいいくらいだ。下に降りて離すのは、人目につくしな」
レイラが答える。文子は黙ったまま立ち上がった。箱を手に持ち、バルコニーに向かう。箱を床に置いたが、顔にはためらいの色が浮かんでいる。
「アヤコさん、無理しなくていいですよ。どうしてもってわけじゃないですし」
タクトが言うと、文子はわずかに首を振った。
「…いや」
箱に目を落とすと、ゆっくり蓋を開いていく。柔らかな夕日が、箱の外側から内側へと回り込む。その動きにつられるかのように1頭が羽ばたいた。後を追うようにさらに1頭、ふわりと舞い上がる。大きく波打つような軌跡を描き、2頭はほぼ同時に夕闇の向こう側へと姿を隠した。
「最後の1匹が動きませんね」
タクトの言う通り、蛹につかまっていたアオキンアゲハはそのままだ。羽は縮れずに伸びていていつでも飛べそうではある。
「おーい、飛んでいいんだよー」
ガクが顔を近付けて言う。
「せやな」
文子はゆっくりと手をアオキンアゲハに近付けた。促されるように繊細な脚を少しずつ動かし、人差し指の根元まで伝っていく。
「もうええんやで。自由になり。会いたいやろ、家族に」
文子が優しく話しかける。アオキンアゲハは羽を閉じたまま文子の爪の上まで這い上がった。そこでようやく羽を開く。
「うわあ」
ガクが思わず声をあげる。周りの大人達も息をのんだ。
ゆっくりと確実に、輝く羽が空気を打った。夕日を時折身に受けながら闇の中へと滑っていく。
「行っちゃったね」
静けさの余韻を壊すように、ガクが無邪気に呟いた。文子は黙ったまま頷く。
夕日は最後の輪郭を海の向こうに隠し、ゆっくり夜闇のカーテンを引いていく。
「これで隠し事なしや。ほな、よろしゅうな。来月から」
文子の目には澄んだ光が灯っていた。
「あ、そう言えば」
レイラは大事なことを思い出した顔をして、胸の谷間に手を突っ込んだ。文子はぎょっとした顔でわずかに反り返る。
「これも忘れないようにしないとな。港で引き渡そう」
小指ほどもないガラス管。闇に慣れてきたタクトが目を見開く。
「それ卵じゃないですか。いつの間に」
「ま、大事な証拠だからな」
レイラはいたずらっ子のように微笑んだ。
〈おまけ〉
頭か匹か、それが問題です。
いきなり謎のこと言っておりますね。チョウの数え方についての話です。
昆虫を数える場合、普通単位として「匹」を使います。「トンボが3匹飛んでいる」といった具合に。
ですが、チョウは「頭」を使うこともあります。生物学など、学問的な話をする時にはその傾向が強まりますね。
これは、かつてチョウを飼育していた西洋の動物園で、チョウを「head」で数えていたからだとされています。
直訳してしまったわけですね。
なんとなく違和感のある表現ではありますが、地の文では「頭」を使うことにしました。
それに対し、そこまで昆虫に詳しくないタクトは「匹」で数えています。
これで「爪上(そうじょう)のアオキンアゲハ編」は終了です。最後のシーンのイメージで、日没後の夕焼けを貼っておきますね。
「インセクト・パラダイス」は完全フィクションの小説です。
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