忙しい日々は矢のように過ぎ、譲渡会当日となった。
「頑張ろうね、クワキチ」
そう言ってケージに布をかける。
譲渡会の会場は、加多区役所のイベント用スペースだ。ある程度広さがあり人が来やすいとのことで、この場所が選ばれている。すでにクワキチ以外のペット用昆虫が数匹、ケージに入れられて待機していた。
「誰か来るかなあ」
クワキチを会場内のケージに移して、ガクはそう話しかける。ふと脳裏にクリスの姿が浮かんだ。いやいやと首を振る。絶対に来るとは言っていなかったからだ。紹介用のパネルなどを設置し、準備を進める。
最初に現れたのは、若いカップルだった。男性は旧日本国人の特徴が強かったが、女性は明らかにインド人系の風貌だ。聞けば先月結婚したばかりらしい。
「まだ子どももいないので、ペットを飼いたいと思うんです」
イケガミと名乗ったその男性が説明する。クワガタは小さい頃、人工変異種ではないものを飼ったことがあるそうだ。
妻の女性がクワキチを熱心に見つめ、しきりに話しかけている。きっと女性の方が先に飼いたいと言い出したのだろう。気に入ったらしく、連絡先を残して夫婦は帰って行った。
その後、何人か見に来る人がいたが、他の昆虫を見るついでに軽く見ていくという感じだった。やはり、クワガタよりはカブトムシの方が人気があるらしい。
正午近くになって、不意にクリスがやって来た。一般の人々に混じると、クリスの繊細な美しさは際立つ。仕事の休み時間に抜け出してきたのか、いつもの騎乗スタイル―燕尾服とかいう背中側だけが長いジャケットのようなもの―でいるから目立って仕方がない。
「やあ、来たよ」
気さくな笑顔でそう話しかけてくる。ガクが思わず身構えて少しのけぞるが、気にも留めない風情だ。
「本当に来たんだね。飼う気あるの?」
ガクが半信半疑で聞く。
「当たり前だよ。嘘なんてつくもんか。俺は約束を守る人間だからね」
そうこうしていると、今度はアメリカ人らしき4人家族が入って来る。明るい髪色の女の子2人が、クワキチを見て歓声をあげた。真っ直ぐこちらに歩いてくる。
「あ、お客さんかな」
クリスは振り向いて言い、頼んでもいないのに流暢な英語で話しかけ始めた。しばらく話すと、振り向いて言う。
「クワキチをご希望だそうだよ」
―なんだか面倒なことになりそうだなあ―
ガクはメモ帳を手にしながら、うっすらとそう思った。
〈おまけ〉
今回は譲渡会のお客さんとしてインド人が登場しましたね。数字に強いと定評のあるインド人、IT系の会社には結構いるのだそうです。時々、うちの近所でもそれらしい人を見かけますよ。
子ども達が小さい頃、まだ学生なのか新聞配達にいそしむインド人とちょくちょくすれ違うことがありましたね。その人は本当にいい人で、わざわざ新聞配達中にバイクを横道の片隅にとめて、汗だくでベビーカーを押し急坂をのぼる私を手伝ってくれたのです。あのご恩はおそらく一生忘れないと思います。
今回の若い夫婦のイメージ。インド人の奥さんの方は、息子の小学校で異文化理解の授業を担当していた若いインド人女性の先生のことを思い出しながら描きました。サリーの巻き方とか教えてくれていたはずなんですが、私はもはや覚えていません。ただ、やたら長い布を体に巻きつける技術がすごいなあと思った次第です。
「インセクト・パラダイス」は完全フィクションの小説です。
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