「雨だからね。」

「金曜日だからね。」



天候や気圧によって体調や心理面が冴えないことは、それはもちろんある話である。


また、週末にだるさや疲れが出ることも、もちろんある話である。


しかし、不快を示す子どもを見て、そういう決めつけをし、それ以上考えようとしない。


なにか辛い目にあっているのか。

なにか嫌なものを見たか。

なにか不安に思っているか。

なにか不満に思っているか。


いくらでも、その子に想いを寄せ、背景を推理し、対応の仕方を考える余地はあるのではないか。


子どもの不調をみては、天気や曜日など、何かしらこちらではどうすることもできない要素にのみ原因を見出す。


そんな奴に子どもを指導する資格があろうか。


もっと子どもを見るべきだ。

{3719F01B-E802-4FF2-8B1A-CFAADEE9ECE5}

周囲が正しい理解のうえに、適切に接することが最も大切です。つまり、話すことに対して極度の不安と緊張があることを理解し、無理に話させようとしない対応が基本です。(以上引用)


こういうことは、本さえ読めば、勉強さえすれば、誰でも理解できることなのに。


なぜ、自分の受け持つ子どもが場面緘黙の傾向が非常に強いとわかっていながら、学ぼうとしないのか。


俺が「不安や緊張を緩和させてあげられるような関わりが大切です」と言っても、聞き入れない。


いくつかの本を紹介しても、読まない。


学ばないことによって、誤ったかわいそうな対応を続けて、喋れない、意思表示できないことを叱り(というか罵り)、なおも「喋りなさいよっち感じよね」などと平気で子どものせいにし続ける。


これはもはや、教師とは呼べない。

ただの無理解なオバハン。


俺はこの子を守るために何をしてあげられるのか。

オバハン1人説得できない自分が悲しい。

遠足の帰り。
バスの中で、子どもたちが本日の感想を、順番に発表して行く。

最後の子が、言葉につまり、自分の感想を言うことができない。

教師はその子に優しく声かけ、励まし、その子がどうにか自分の言葉を発せられるように、子どもと向き合っている。

その子も、黙ってしまっているが、内面では様々な思いが蠢いていたり、葛藤が起こっていたりしているのだろう。

そんな場面で、他の教師は、私語をしている。

子どもと教師が向き合っている最中。

子どもが、自分を越えようとしている最中に、教師ならばその状況を、どうにかしてあげたいと願うことが当然であろうと思われるその最中に、酒の話を始めている。

その子と、その子と向き合う教師には見向きもせずに。まるでそこに子どもなどいないかのように。

おれはこの人間を、見限ってしまおうかと思ってしまった。

もはやそこにいる人間を、教師として見ることができないと思ってしまった。

おれは、よほどその教師が手に持っているチラシを没収し、注意してやろうかと思った。

しかし子どもたちのいる前で、それはできなかった。

おれは、こんな、子どもを大切にしない人間を、教師として認めたくない。

怒りは醜いかもしれないが、怒りではどうにもならないが…

せめて、これからの真心のこもった教育のためのエネルギーに変換しろと、自分に言い聞かす。

大切なのは、気持ちだよ。