昨日は学校の先生3人と一緒にカラオケに行った。
3人とも年下。

そのうちの1人の女の先生が歌っている姿を見て思った。
「あぁ、これは可愛いな。今までに何人の人と付き合ってきたのだろうか。」

前に、中一の頃から彼氏がいたと話していた。
こんな可愛い人は、絶えず彼氏がおったことやろう。

大学を卒業しても、「彼女いない歴=年齢」であった俺とは、過ごしてきた学生時代の輝きが違うやろうな…。
今でこそ俺は彼女いない歴3年やけど…
年齢に比べれば3年はだいぶマシかもしれんが、それでもやっぱ寂しい。


そしてまた、学校の先生の話。
これはまた別の先生やけど、この間、研究授業を行なった。
特別支援学校の高等部の一年生の担任である彼女(この人も年下)は、それはそれは素晴らしい授業をしたそうな。
先生が多く登場せずとも、生徒たちができるだけ自分達で動き、おもてなしカフェをすることができたという。
そのためには、場の設定や教材教具の工夫など、できる状況づくりの準備をがんばったことやろう。
教頭先生は素晴らしかったと絶賛していた。
そんなに良い授業なら俺も見てみたかった。
この先生にとって、これはすごく良い経験となることやろう。
果たして俺はどうか…。


見た目も、才能も、恵まれたものなどない。
しかし、そういう者には「努力」という道がある。
というか、それしかない。




男は
くやしさを
エネルギーにして
前進して
ゆくのだ‼︎
わかるな
「今にみておれ」の根性を
忘れちゃいかんぞ
がんばれ!

両津、クッソ良いこと言いよる。

がんばるしかない。
自分の納得のいく人生にするためには。


今年度、昨年度の学年を持ちあがった。

昨年のペアの先生は、別の学校へ異動になった。

今年のペアの担任の先生は、この先生も、持ち上がってきた先生。

しかし昨年度から、俺がこの先生に対して持っていた印象は「うるさい」「きつい」というもの。

 

場面緘黙でしゃべらない子に対し「言いなさいよ!」「しゃべらんね、ずるよ」と言っている。

その子が教室でおもらしをしてしまったときに「トイレに行きたくなったら言わんね!」「もー、くさいね!いやだー」「6年生なのにはずかしいよ!」などとその子に対して次々と言葉を浴びせていた。

 

俺は、その子のことを昨年度担任していて、今年度の初めにその先生に引き継ぎとして、その子が自分から教師に声をかけられるようになった取り組みを伝えたり、場面緘黙について参考になる本を教室に置いて読んでも良いと言ったりした。

このきつい性格の先生がこの子の担任になるなら、ちょっとしゃべれるようになったこの子も、またしゃべらなくなる心配が、大きかったから。

 

実はこの先生、俺が5年生の時にその子を担任するよりも前の、4年生の頃にその子の担任をしていた。

昨年度の俺の実践研究からの引き継ぎで、

「場面緘黙の子がしゃべれない大きな要因のなかに、不安と緊張がある。」

ということは認識していただいたが、

「4年生の時の担任と、5年生の時の担任の先生がいる状況で、よく知っている先生のクラスだから、慣れた環境なはず」という認識でいらっしゃることが問題だなぁと感じる。

よく知っている人のもとでなら安心できますか。

先生、あなたのその対応の中で、この子は安心して緊張せずに過ごせますか。

 

そんな思いで、場面緘黙の本を読むようにお勧めした。

すると、「先生こんな本読むの好きなんやねー」と言いながらぱらぱらめくりながら「ふ~ん」というだけ。

また、その子がその先生から何やら言われているときに、俺がその子の心の声を想像して後ろから代弁してやったりした。

 

でも、、、それでよいのだろうか。

 

俺がなぜそのような対応をするのか。

それはたぶん、弱気なんだと思う。

謙虚じゃないからだと思う。

 

俺がその先生に対して「あなたの対応はまちがっています」という想いを抱いている。

そのくせ、よりよい支援や指導をしていくための建設的な話し合いや意見交換は、できていない。

俺が「なるべく不安や緊張を感じなくていいように、楽しく気さくな関わり方をしたり、しゃべることや不安に対する克服は小さなスモールステップで」という意見を言う。

それに対してその先生が「おうちや放課後デイサービスでは楽しいことさせてもらってるかもしれないけど、学校ではがんばらせないと」という。

どうにかして、そんな認識に固執することをやめてもらいたい、と思っても、取り合ってもらえない、と思うと、良い支援方法について、話し合う自信が持てなくなる。

 

そうして結局、去年の俺の、一応良かったと思われる取り組みは引き継がれることなく、その先生の独自の価値観による指導が繰り広げられてしまっている。

 

これは、俺に力がないからだろう。

 

その先生は、この学校に来たのが特別支援教育の実践のスタートで、むしろ教師としてクラスの担任もほとんどしたことがないような方で(40代講師)、自身でも「私は特別支援教育に関しては素人」なんて言っている。

だったら、特別支援教育の勉強をしてきた俺の、昨年場面緘黙の実践研究をした俺の助言を聞き入れてくれよ。と思う。

自分で自分を素人だというのなら、素直に謙虚に、助言を聞いてよ。と思う。

 

思ってしまう。

 

そう。こんなことを思ってしまう俺もまた、謙虚ではないのだろう。

人に変わってもらいたいと思っても、変えることはできない。

まずは、自分の未熟なところを知り、そこを正していかないといけない。

俺だってまだ若手。偉そうに言える立場でもなければ、そもそも実力があるわけでもない。

 

しかし、持っている実践や知識があることも事実。

それを、どうやったらその先生と共有できるのか。

どうやったら、俺のこの考えを認めてもらえるのか。

 

認められない原因はあちらにあるのではなく、こちらにある。

そのこちらを正す努力をしないことには、ただの愚痴。

所詮ただの、無力の言い訳にしかならないのだろう。

 

子どものために教師ができること。

それは、教師が成長することなのだろう。

 

自己を知り、自己を正す。

教師の人間性を磨け。

 

2014年度は、初めて小学校のクラスを1年間担任した年でした。
もう、それはもう、かけがえのない1年間でした。

学校の教師とは、何なのか。
授業とは、何なのか。

子どものために、教師がいる。
子どもが学ぶために、教師がいる。
説明型の授業からの脱却。
授業のシビアさ。
子どもが主体的に考える授業。
子どものことをしっかり考えてくれる教師。
教師が学ぶことの大切さ。
子どもの可愛さ。
自分の無力さ。
自分の可能性。
先生方との出会い。

この年の夏に、特別支援学校枠で教員採用試験に合格しました。
小学校ではなく、特別支援学校枠で受けたのは、前年度に学級崩壊とも呼べるクラスの担任を約40日間務め、自信を持てなかったからです。
しかし、1年間3年生の担任を務めて思ったことは、自信のなさよりも、素晴らしさの実感や、期待や希望でした。

教師がしっかりと授業について学び、教師である自覚と誇りを持ちさえすれば、困難でも乗り越えていける気がしました。
そして何より、たくさんの子どもたちに笑顔で学校に来て学んで力をつけてほしいという思いを強く持ちました。

しかし受かったのは特別支援学校。
その、新採1年目の今年度も、あと少しとなっています。
ペアで担任を務めて頂いた先生は、なんと前年度勤務した小学校の校長先生の、一番弟子とも言えるような女性の先生でした。
過去、3年間、小学校で校長先生と同学年で仕事をされたそうです。
不思議な素敵な縁を感じました。
でも、不甲斐ない俺は、迷惑と心配ばかりかけたことと思います。
優しさを大切にしている俺も、子どもにきつく当たっていたことに最近はっとしました。

他の先生についての批判を聞かせてくれますが、それは間接的に俺に言っていることだという事は分かっています。
優しい先生は、俺に期待して、でも俺を傷つけまいと、遠回しに気をつけるべきことを教えてくれました。

そして自らの実践を通して、たくさんの技術や働き方を示してくれました。

本当に恵まれています。
人の縁に恵まれています。

子どもたちののHEROになるために、人格を磨き、教師としての専門性を高めるよう、努力し続けることを誓います。
まだまだひよっこですが、がんばります。