新作入荷はいつですか?

新作入荷はいつですか?

とりあえず、好き放題書いてます。。。
どこへ買い物に行っても、ほかの客から店員と間違われる男のブログです。
2019年1月、たった4回しか更新しなかったブログを6年ぶりに再開中。

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新型コロナウイルスの影響で外出自粛を!

 

それでも外出してしまう人たちのインタビュー。

しょうがない、とはわかっていても外出してしまう人たち、自分は大丈夫、と外出してしまう人たち、、、。

 

そして今日は感染者がこれだけ出ました!

 

毎日のニュースはこればかり。。。

 

 

みなさん、今回ばかりは自分は平気、とはいかないということにそろそろ気づいていい頃です。

 

自分は平気、マスクしてるし、手洗いもしっかりしてるし、平気!

 

そんな過信が後々社会を混乱させるかもしれない。

 

 

そんな中、ここしばらくは外出も減り、今晩は家で何を食べよう、くらいしか楽しみがない。

 

 

ふと今日、久しぶりに実家の食卓を思い出した。

 

思い返せば、我が家の実家の食卓の食べ合わせは、今となっては一風変わったものだった。

お寿司とそうめん、トマトソースのパスタと春巻き、トウモロコシの冷たいスープと熱々おでん。。。

 

この組み合わせは絶対で、まるで付き合いたてのカップルかのように、くっついてそれぞれが別々で出てくることはなかった。

 

子供の頃はこれが当たり前、普通だと思っていた。

 

 

母は、おでんは冬に食べると美味しいじゃない、冷たいスープは夏、

でも、春でもいろんなもの食べたくなる時があるよね、だったら春には冬のものと夏のものを同時に食べればいいじゃない、

と言っていた。

 

狂っている。

 

今はそう思えるが、小さい頃は妙に納得していた。

 

納得どころか、感激していた。

 

それが今ではもう20年も実家を離れ、そんなおかしな組み合わせで食事をすることはなくなっている。

むしろその組み合わせで食べたい、とは全く思わない。

 

 

そして今日、不意に、そろそろ暖かくなってきたので冷製スープでも飲みたい、と思ったのと同時に、

おでんだ、となぜか思ってしまった。

 

 

なぜなのか、冷製スープが俺をおでんも一緒に食べろと誘惑する。

 

まるで冷製スープが熱々おでんから「2020年の春に、食卓テーブルの上で会ってね。約束してね。」と言われたかのように。

20年以上も前の約束を熱々おでんが覚えているとは思えないが、熱々おでんからしても、冷製スープとの再会を待ちわびているかもしれない。

 

自分に言い聞かせてみる。

 

大丈夫、俺は狂気の沙汰ではない。

 

今日だけは、この組みあわせで食事をしようとしている自分を平気だと過信してもいいはずだ。

 

でも、そんな過信が後々自分自身を混乱させるかもしれない。

 

一度許してしまったら、また再びあんな狂気の組み合わせの食事を欲してしまうかもしれない。

あぁ、罪悪感でいっぱいだ。

 

しかしながら今夜は食べてしまうだろう。

冷製スープと熱々おでんの再会を心待ちに、綺麗な夕焼けを見ながら背徳感で少しだけドキドキした。

アメリカにヨセミテ国立公園という場所がある。

カリフォルニアにある有名な国立公園で、大自然に圧倒される最高のキャンプスポットである。

 

ここで何度かキャンプしたことがある。

日本では経験できないスケールと、豪快に伸びている樹々と、広くて大きな蒼い空に何度圧倒されたことだろうか。

 

そして満天の夜の星空は、今でも思い出せるくらい脳裏に焼き付いている。

暗い中でも、空が高く、無限の広がりを感じ、でもなぜか星は近く感じた。

不思議な体験だった。

 

 

今日は久しぶりに夜道を歩いて帰った。

なぜか歩いて帰りたい気分だった。

 

冬の空は寒いけど空気が澄んでいるから、夜の空がとても綺麗だ。

まるで、星空を見るためだけにこの寒さがあるかのように。

ヨセミテほどではないが、今日の星は、ひときわ輝いて見える。

 

日中、電車の中で、堂々とカップラーメンを食っている男性を見かけた。

関東の方にはこの衝撃が伝わりやすいと思うが、JR某路線、である。

まあまあ乗客が多い。

いや、まあまあどころか、かなり多い。

東京駅とか、品川とか、有楽町とか、どう考えても都心を走っている、まさに動脈と言える路線の一つである。

そして、実際にはそんなに混み合っている時間帯ではなかったが、平日の昼下がりに、である。

 

この方が今体験している、このカオスな、まるでブラックホールの真ん中にいるような、周囲の存在を全く無視した時間と空間はどうなっているのか。

 

堂々とカップ麺に熱中する背中は、まるで全てを悟っているかのように、潔くも見えた。

 

それより、その食べ終わった後の汁は、スープはどうするのか。

 

汁の行方が気になってしょうがない。

 

あー、聞きたい。

けど、聞けない…。

 

もう少し俺に勇気があれば。

神様、一歩だけ踏み出す勇気をください。

 

世の中にはいろんな人がいるものだ。

いろんな価値観があるものだ。

 

 

それにしても、今夜は静かな夜だ。

 

そして、この無限に広がる星空の向こうには何があるのだろうか。

 

 

今夜は何かベタな恋愛映画でも見よう。

 

少しでいい。

現実とは考えにくい今日、から離れたい。

 

でも、やっぱり俺には無理。

 

 

電車でカップラーメンは、

 

厳しい。

 

今夜のこの星空を見上げながら、電車でカップラーメンを堂々と食える、そんなあの男にジェラシーを感じた。

 

 

冬来りなば春遠からじ。

(イギリスの詩人、シェリーの「西風の賦」の一節より)

 

  つらく厳しい冬の時期を耐え抜けば、間もなく明るく暖かい春、

  つまりは、幸せな時期は必ず来るというたとえ。

 

 

 

2年ぶりに携帯電話を変えた。

iPhone7 → iPhone Xs である。

変えた大きな理由は2つ。

一つはカメラ。

より良いもの、特にカメラのポートレートモードを使いたかったから。

もう一つはバッテリーがそろそろ寿命になってきたこと。

バッテリーは交換すればよかったのかもしれないが、まあ、色々新しくなって欲しかったので買い換えた。

 

それにしても、現代社会の携帯への依存度は半端じゃない。

待ち合わせは場所をしっかりと決めなくなるし、ちょっとした要件や電話出られない状況は全てLINE。

食事をする場所も、家を出てから電車の中で検索して、さらには予約もしている。

 

もう、これがないと生きていけないレベルまで生活を侵食してしまっている。

まさに携帯電話に生活をレイプされてしまっている。

 

家に忘れた日なんかは悲劇だ。

一日何もできない。

 

紛失するなんてもっと悲劇だ。

誰とも連絡を取ることができない。

 

 

 

学生の頃、アメリカに留学していたことがある。

 

渡米してすぐ、たった3日間だけ、同じホームステイ先にロシアからの留学生がいた。

彼が2年間アメリカで勉強し、ちょうど祖国へ帰る3日前に出会った。

 

好青年な印象だったその青年は、ケチャップ大好き、まさにケチャッパーだったのである。

 

何にも大量にケチャップをかけていた。

ポテトも、サラダも、卵料理も、パンにさえも、とにかく何にでもケチャップだった。

 

ケチャップに依存していた。

病的なくらい。

まるでアメリカのチープなコメディ番組でも見ているかのように、いつもケチャップと暮らしていた。

 

彼が帰国する前の最後の夜、ホストファミリーが彼のためにビーフステーキを用意してくれた。

ロシアへ帰る前に、最後にご馳走を、と考えたのだろう。

アメリカのビーフは豪快で、そのステーキも塩胡椒で食べる、シンプルに美味しいステーキだった。

 

そう、これにも同じく、彼はケチャップをかけようとした。

豪快に。

大量に。

 

ところが、である。

 

この夜は少し違った。

 

ケチャップが無かったのである。

冷蔵庫にケチャップの存在しない状況、そう、まさにロシアからきた青年には信じられない光景だった。

 

まさかこの素晴らしい、光り輝くステーキにまでケチャップをかけよう、とは夢にも思わなかったホストファミリー。

反対に、残念そうなロシア人青年。

 

そしてそれを冷たい視線で見るホストファミリーの表情は今でも忘れられない。

 

 

この青年にとっては、我々が今、携帯電話が手元から突然無くなったのと同じくらい、つらいつらい状況だったのだろう。

 

何事も依存しすぎるのは良くない。

でも、この依存から抜け出し難いのも確かだ。

 

あの日の彼とホストファミリー、両方の落胆した顔は一生忘れないだろう。

 

 

でも大丈夫。

 

明日、またケチャップはスーパーで買えば良い。

今日1日、一食だけ、我慢できれば。

 

 

彼は今もロシアで、ケチャップに囚われた、ケチャップまみれの幸せな生活を送っているのだろうか。

 

綺麗な雲と、そして蒼とオレンジの空を見上げながら、遠いロシアを想う夕暮れ時であった。