リサイクルセンターは覗くのは好きだが、いつも人の商売ながら批判的に見ている。それは、値段が高いということだ。売ったことがある人なら判っていると思うが、彼らは本当に二束三文で買う。そして売るのはかなり高い。DVDレコーダーやテレビなどは、いまやさらに性能がよく画質のいいものが、しかも新品で安く売られているのに、その電器店の広告チラシよりも中古を高く売っている。判らないのだ。昔の定価の半額どころか六割、七割の売値を平気でつけている。売れるわけがない。中には只でもいらない旧式のパソコンを十万円以上で売ったりしている。おやじの勉強不足だ。もっと、電器店のチラシどころか店に行って見たらいい。
 それだから、いつまでも家電やオーディオの機械が売れないでごろごろある。家具にしても高すぎる。いまは家具は売れないのだ。家具のいらないアパートやマンションがどんどん建っている。
 わたしが本を買いにゆくと、引越しや家を売るというところによくお邪魔する。ベッドもいらない、タンスもいらない、みんな只であげるから持っていってと頼まれる。うちでは本棚は倉庫でいくらでも必要だ。それは只ならありがたい。
 それにしても勿体ない。家一軒潰すのだが、その中にある家具もいらない。随分とそんな家が多いのも、この青森市に新幹線がやってくるからだ。三年後に開通する。そのために、線路にかかった家や新幹線の駅にかかった家は立ち退きだ。どうして我が家を通らないのだ。
 もうだいぶ線路もできている。駅になるところも大掛かりな工事だ。森林を切り開き、いままでのどかな林のあったところもすべて切り倒された。木は軒並み伐採された。そんな広大な土地が必要なのだろうか。いまでも八戸まで東京から新幹線で来ると、仙台、盛岡まではまあまあの乗車率だが、八戸まではがらがら。それが青森まで延長されても同じではないのか。時間が短縮されて、いまの乗り換えて四時間が直通で三時間になっても一時間より違わない。終着青森駅までやってくる人はどれほどいるのか。
 まるで、新幹線様のお通りだいと、幅広いローラーで青森県の中を踏み潰すような土地を使う。新駅の周辺にそれほどの操作場や駐車場がいるのだろうか。
 何度もその地区に呼ばれた。古本を売りたいと行ってみれば、立ち退きだ。
 街が大改造されるとき、ゴミも増える。日本列島大改造というブルドーザーはいまだに健在なのだ。自転車操業の国でもあるまいし、すでに破産状態なのに、いまだ投資で拡大生産すると信じているバカがいる。
 わたしなどはいつも勿体ないと思う。まだ住める家、まだ使える椅子、まだ使える車、それを惜しげもなく潰す。
 この前もそんな立ち退きの家から、頼まれて陶器をなんとか引き取ってくれというから、工芸や骨董品が好きで集めている親戚を呼んだ。一緒に行ってみると、畳にずらりと並べられているのは、亡くなったおばあさんが六十の手習いでやり始め、九十で死ぬまで、陶芸家の濱田先生のところに通って陶芸をやったという弟子の作品なのだ。遺族も処分できずに困っている。
 わたしは本だけあればいい。親戚も押し付けられて困っていた。
 家一軒の中にはさまざまなものが入っている。それが人の思いが籠もっているものであればあるほど、処分に困る。

 市内にバタ屋が店を出している。リサイクルセンターといういま流行りのものではない。まるで、家から布団から衣類、食器まですべて持ってきて、店の中にぶちまけたような凄まじい店といえるかどうかというところなのだ。それは迫力がある。普通の人がリサイクルの店だと覗くと足の踏み場がない。うちの古本屋もそうだが、そのおやじが驚いているのだから、上には上がある。
 毛布の下に古本があり、その古本を掘ると、さらに下からレコードが出てくるという店なのだ。どこに何があるのか判らない楽しさ。わたしはそんな店が大好きだった。あまりの酷さに、ご清潔な人は口を押さえて出てゆくほどすごい。
 おやじは展示販売ということを知らないのではないかと思うが、そうではない。品物をどかすと、ちゃんとその下から陳列しているオープン棚が出てくるのだ。あまりにもたくさんの古物が入ってくるので、整理がつかない。そして、どこでも隙間があればぶちまかれるので、お客が奥まで行くには古物の上を乗り越えて行かなければならないのだ。そして、その中からモノを探すには、古物の山の中をのた打ち回らなければならないときている。
 さらに、入口では何を考えているのか、野菜を売っている。白菜百五十円、大根同じ、ほうれん草百円とスーパーよりは安い。自分たちの畑から持ってくるのか。それだけではない。漬物まで積んで売っている。古物の中にそこだけが新鮮なのが合わない。
 棚に無造作に並べられているお菓子類は、見るとすべて賞味期限が過ぎたものばかりを半額以下で売っている。いまは、いろんなメーカーが、賞味期限云々と騒がれているが、ここではそんなことはお構いなしだ。平然と返品された菓子をまた売りしているのだ。
 わたしもあまり賞味期限は気にしないほうだから、レジに本と一緒に持ってゆくと、そこのかみさんが、
「これは、賞味期限が過ぎたものだけど」と、一応断ってから売っている。買うほうは承知の上なのだ。
 すでに売り物にならない捨てるものを商材にしていても立派に商売になるのだ。昔の体育の白ズボンがまだビニールの袋に入ってあった。こんなもの、誰が買うのかと思ったが、芝居や映画の懐かしい場面ではそうした四十年前の体操着など使わないだろうかと思ったりする。
 ソニーのベータという製造中止になったビデオもあった。世界の流れに負けたのだが、それはいまは逆に探している人がいる。アカイのオープンリールのデッキもある。わたしが学生のときはそれで録音したものだ。カセットの音質よりずっと音はよかったときだ。
 考えてみると、時代に置き去りにされたモノたちがおもちゃ箱をひっくり返したようにある、この田舎のバタ屋の店は、何か宝箱のような気もしてくる。
 きっと、いまも全国のどこかで誰かが、8トラのテープを探していたり、8ミリ映写機を探していたりするのだろう。どうしても聴きたいテープがあっても再生ができないとか、見たいフィルムがあっても機械がないという人がいる。実は、わたしにも8ミリフィルムがあった。まだビデオが出る前に撮影したものだ。それをカメラ屋さんで、DVDにしてくれるというので高い料金を払ってやってもらったが、暗くて何が映っているのか判らないで失敗した。
 次々と新しい機械が出てくるが、古い思い出は再び目にすることなく、閉じられた世界にいるのだ。
 本もそんなようなものだ。どうしても読みたい。また目にしたい一冊というのがある。うちの倉庫にぶちまけた本の中にひょっとしたらあるのかもしれない。人のいらない捨てるモノの中に別の人のお宝があるかもしれない。だから、わたしも本はできるだけ捨てられないのだ。いつか誰かと出会うまで、本の山に眠らせておくのだ。