前夜祭

前夜祭

古本屋のうたた寝、本の音 改め

 青森から本が送られてきた。来たかと、わたしは心待ちにしていたクラフト封筒を開いた。齋藤せつ子さんの『健やかな日常』という小説集が、ようやく日の目を見た。わたしの文学の同人仲間で、齋藤せつ子さんを師と仰ぐ葉閑女さんが、たっての願いの遺稿集とはなったが、小説集の上梓に漕ぎつけた。女史からは、その弘前の新聞に載った出版までの経緯を書いた文化記事のコピーを送ってきた。いつもながら文のうまい方だった。
 この本の作者、齋藤せつ子さんは、昨年亡くなられた。その一周忌に文学仲間たちの手によって昭和40年50年代に月刊雑誌新潮に発表された齋藤せつ子さんの小説三編を一冊の本にまとめて出版し、一周忌の席を設けて、青森の文学の徒が集まった席で遺稿集となった作品集を披露することとなった。わたしにもメールで七夕に行われる一周忌と出版記念の会への参加の打診があったが、仕事が休めないので残念ながら遠くより、このブログなどで応援する形となった。
 齋藤せつ子さんは元より黒石市ゆかりの方で、そこは青森県でも文学者を輩出した土壌でもあった。黒石文学会というのもいまもあるのか。ロシア文学者の鳴海完造はじめ、丹羽洋岳、秋田雨雀、鳴海要吉など輩出し、浪岡という近隣には直木賞候補になった『津軽艶笑譚』の平井信作がいる。齋藤せつ子さんはいつから文学の芽が出たものか。昭和37年に32歳の若さでタウン誌の北の街を創刊し、それが平成30年まで実に56年も続く。地方の出版社として、ミニコミ誌を発行し続けながら、千冊を超える本を出してきたが、せつ子さんご自身の本は一冊も出していない。人の本ばかり出してきて、死後にようやく処女出版となった。
 そのことで気になったことがある。昭和41年に表題作の『健やかなる日常』が新潮同人雑誌賞を受賞し、また同じ小説が同年下期の芥川賞候補となる。そのとき、せつ子さんは、上京して本格的に書こうとしたことも聴いた。なのだが、誰かが、上京せず、青森にいて文学の道を切り開く立役者になるよう勧めたというのも聴いた。それが、ずっと晩年まで、出版を通じて、自分は陰に回り、多くの本を世に出してきたのだ。あのとき、せつ子さんが娘さんがまだ子供でいたとしても、上京して文壇で書いていたとしたら、さらに多くの名作を書いて、世に問うことになったのではないのか。惜しまれる生き方をされた方だ。
  芥川賞候補になったときの、受賞者は、丸山健二の『夏の流れ』であった。当時としては23歳という年齢が史上最年少ということで話題になっていた。候補に挙がっていた新人の顔ぶれは、振り返ってもすごい面々だ。阪田寛夫、柏原兵三、野呂邦暢、豊田穣、宮原昭夫と錚々たる顔ぶれにせつ子女史も並んでいた。そのときの選者はいまき亡くなった方々ばかりだが、川端康成、瀧井孝作、石川達三、丹羽文雄、舟橋聖一、三島由紀夫と並ぶ。いまなら、そうした激戦区でノミネートされたということがすごいことなのだ。きっと、候補作のレベルが高かったものと推察される。
 せつ子さんはその後、小説を書いていなかったのかというとそうでもない。五人会という同人誌で書かれていた。五人のメンバーは淡谷悠蔵さん、斎藤葵和子さん、工藤英寿さん、高谷輝子さんと、いまは葵和子さんだけがご存命だが、平成7年に淡谷さんの追悼号を出されるまで続いた小説の同人誌だった。わたしはその数冊を目にしただけだったが、いずれはその作品集も世に出したいところだ。
 地方には訳あって埋もれてゆく作家はいくらでもいる。時代で発掘される人もいるだろうが、このたびは、われらの仲間の手によって、埋もれるところの名作を形に残したことはよかった。津軽だから書けたかもしれない、主婦の立場の揺れ動く女心を見事に書き上げた。それはぜひお求めの上、読まれたい。ネットで書名で検索すれば購入できるサイトがいくつか出てくる。いまは便利で、書店でなくてもすぐに注文ができるからいい。生きている間に出さなかったせつ子さんも、きっと津軽のカラキズな女だったのだろう。
 せつ子さんは、わたしの親の代からつきあいはあって、うちの喫茶店には毎日のようにコーヒーを飲みにこられていた。仕事場が近いこともある。コーヒーはお気に入りで、うちのファンになっていた。よく同人仲間で地元の新聞社の文化部長をされていた工藤英寿さんと文学談義をされていた。それがサルトルとボーボワールのように思われて、若いわたしには羨ましく見えたものだ。思い出はつきない。北の街の雑誌は廃刊となったが、出版事業は続けられるようで、陰ながら応援したい。