わたしは言霊など信じない。言葉に不思議な霊力などない。それが引き起こすのは、暗示や偶然といったすべて科学的な説明のできるものと思っている。
 それでも、女房がよく不吉なことを口にしたりすると、ふうと息を吐いて、それを掌で左右に消すようにして謝る。言った言葉に対してすぐさまそうして否定しなければ、自分にも災いがかぶさってくるかのような仕草をする。
 人々の生活には言霊と思われる風習や迷信がどこかで生きているのだ。
 左翼系の川柳作家が友人だが、彼が所属する左派の言論団体の席上、いつか言霊論争を展開したことがあった。同席の全員が言霊を否定したのに、彼だけは川柳という言葉との付き合いの長い人生において、どうしても否定しかねるものがあると、一人言霊の擁護論に回った。それは彼だけでなく、詩人や歌人もそうだろう。長く言葉というより文字と向き合っていると、不思議な体験もするだろうし、自分の中から思いもしなかった言葉が噴出して、それがいい作句に繋がるということから、怪しげな言葉の持つ霊力を信じたくなるに違いない。
 わたしも詩は書いてきたが、そこまで考えたことはない。辞書を片手に書くことで、自分の中から出た言葉が、神ならぬ紙の助けを借りることで客観的になってしまう。まして、いまのパソコンでの創作となると、実によそよそしい言葉が頭からではなく、キーボードを打つ指先から突然に出てきたりする。それは、変換作業という、ソフトにはいっている機能がそうさせることで、逆に自分にはない言葉の創出になり、意外性や偶然性を楽しむといった、それこそ言霊などありえない世界に離れてゆくのだ。

 いま、わたしの古本屋の倉庫には約十三万冊の本が出番を待って眠っている。その倉庫の奥の奥に入ると、夏でもひんやりとした冷気が漂っている。逆に冬は事務室より暖かい。窓もなく、締め切った部屋で、本で埋められている空間がどこか違う。
「本は温かいんじゃないかな」と、言ったお客がいた。それが本のせいかどうか科学的な実証をしたのではないから言えないが、確かに本で満たされている空間の温度が違うのだ。
 広い倉庫の中を毎日、注文の本を探してうろつくのは日常業務だから、なんということもないが、不思議と怖いとか、不気味と思ったことはないのだ。何かに逆に守られているように感じるのだ。
 本はわたしが買わなければ捨てられる運命にあった。それが、ここに収蔵されていると、いつかは客の手に渡り、新たな主人の書斎に納まるかもしれない。わたしは、本たちにいつも独り言のように言う。
「いいか、もう少し待っていろよ。そのうち出してやるからな」
 それは、まるで、何か人間か動物に対して話しかけているように、それこそ、そんな態度のわたしのほうが不気味だろうか。
 そんな倉庫を行ったり来たりしているときに、ことりと音がして、一冊の本がわたしの足元に落ちた。よくあることだった。ところが、その本のタイトルが、わたしが最近感じいって、図書館でも探していたりする内容が書かれているもので、本のほうから自分を読んでくれと、身を投げ出してくる。そんなバカなことと、思うが、そうした偶然は一回や二回ではない。
 本には命があるのか、本を書いた人の魂が宿っているのか。それは、言霊というのではないか。などと、わたしもそっちのほうへ流されようとして首を横に振る。そんなことがあるはずがない。たまたまあったことなのだ。
 確かに本の中には作家の意思が書かれている。それは倉庫に眠ることでは許されない。意思は伝えたがる。本は誰かに読んでもらいたいといつも無言の叫びを倉庫の中でしているのだ。
 わたしにはそれが聞こえるようだ。なんとか早く、注文がきて、役に立つ人の目に触れさせたいと思うのだ。
 その古本屋のおやじの気持ちが判るのか、本たちは実にわたしに従順であった。ときには、あまり長く置かれるものだから、叛乱を起こして一斉に棚から崩れ落ちる集団もいた。そんなときは、わたしは怒鳴る。
「ばかやろう。何を蜂起しているんだ。不満があるなら言ってみろ。おれが救ってやらなかったら、いまどきは、おまえたちは灰なんだ。ゴミなんだ」
 図書館は開かれた空間で、多くの読者の手にとってもらえる仕合せが本たちにはある。だけど、商品としての古本在庫は、十年以上動かないと、やがて廃棄処分にされる運命にある。そんな動かない棚というのがある。一度も注文がこないコーナーの本、それは、自費出版した短詩型の歌集や句集だったりする。地元では少しは名が通った先生でも県外に出ると無名だ。なかなかネットに出していても注文がこない。さりとて捨てるには忍びない豪華本ばかりだ。そんな本たちが、苛々して出番がないので、集団脱走しようとしたのか。ここは、牢獄ではない。待合室なのだ。本に足や羽根があるわけではないので、どうせ逃げられないのだ。
 そんな本にも、ここが居心地がいいのか、売られたくないのがたまにいる。注文がきて、探しても見つからない。おかしい。どこへ行ったかと、お客には見つかりませんと謝る。そうした本が、実は、わたしの見えない死角に隠れていたりするのだ。しばらくしてから奥から出てくる。きっと、その本は隣に置いてあった本と恋仲なのだろう。離れたくない一心で逃げたのだ。そんな想像もしたりする。
 本はまるで生き物のように、わたしは声をかける。そうした本にわたしは守られているように、倉庫にいると安心感がある。
 四年前まで、まだ市内のマンションに住んでいなかったときは、空気ベッドとシュラフを倉庫に置いて、夜中まで飲み歩いた後に、店に戻り、倉庫で古本の間にはさまって寝たことが何度もある。タクシーで家まで帰ると四千円以上取られるところだ。いっそ倉庫で寝たほうがいいと、寝床を作った。
「さあ、今日はどこで寝ようかな。哲学の部屋かな、それとも日本史かな」と、酔ってバカなことを言っている。
「さあ、おまえたち、明日こそは、出てゆくんだぞ。いつまでも、居候しているんじゃない。まったく、家賃も払わずに」
 と、そんな酔っ払いの愚痴も本たちには聞こえたか、あちこちで、かたり、ことりと返事をしてくるのだ。