霖雨蒼生編 登場人物紹介

 

 

 

 

 

第1話  甘い香り

 

 

 人はいつだって決断している。朝ご飯は何を食べよう、どんな服を着ていこう、今日はどの道を歩こう。常に何かを決断していると言っても過言ではないだろう。もちろん、即座に決断できることばかりではない。何日も、いや、何年も悩むことだってある。また、自分一人では決断できないこともあるだろう。だが、決めなければならない時がある。その決断が、人生を動かしていく。

 

 10年前…、33回目の誕生日を迎える前日のことである。俺は人生の岐路となった場所へ足を運んだ。あの時、その場所から足を遠ざけなければ、"彼女"と出会うこともなかったし、過去を引き摺りながら生きることもなかっただろう(純情見習い編【第16話 捨てられたおにぎり】参照)。俺はその場所…、中退した神奈川県立富岡高等学校(現在の金沢総合高等学校)で恩師の"特別授業"を受け、"彼女"との待ち合わせ場所へ向かった(純情見習い編【第99話 明日を迎える】参照)。

 

 駅に着いて、通過する快速電車を目で追いかけていた時である。胸ポケットに入れた携帯電話から着信音が聞こえた。

「はい、清掃氏です」

「いっ、妹子です。清掃氏さん、お忙しいところすみません…」

「大丈夫だよ。どうしたの?」

「いっ、今…、羽田空港にいるんです」

「えっ?! どっ、どうして?」

「そっ、それはあの…」

「…これからさ、人と会う約束があってすぐには行けないけど、待っていてくれるかな? 夜になっちゃうと思うから、好きな所を回っていていいよ。俺はどこへでも行けるから気にしないでね」

「…飛行機に乗ったのも、北海道を出たのも初めてなので、どこに何があるのか分かりません。だから、ここで待っています…」

「分かった! 大丈夫? 少しでも早く行けるようにするね」

「はっ、はい、待っています…」

まさか妹子さんが東京へ来るとは夢にも思わなかった。お母さんは知っているのだろうか。黙って家を出てきたのだとしたら、それは見過ごせない。俺は心配になり、以前に聞いていたお母さんの携帯電話に電話をかけた。

 

 

「もしもし、清掃氏ですが…」

「あら、清掃氏さん。どうしました?」

「実はですね、妹子さんから羽田空港にいると電話があったのですが、お母さんは妹子さんが東京へ来ていることをご存知ですか?」

「はい…、知っています。どうしても行きたいと言うので…。今日、東京へ行った理由は本人から聞いて下さい。娘を…、よろしくお願いします」

「分かりました…」

娘をよろしくお願いします、そんなことを言われても…。責任重大である。とにかく無事に帰らせてあげなければならない。帰りの飛行機は何時の便なのだろう。時間によっては会えないかもしれない。俺は妹子さんの身を案じながら、"彼女"との再会を果たしに向かった。

 

 

 羽田空港に着いたのは、すっかりと日が暮れた後だった。メールで伝えた場所へ行くと、不安そうな顔をした彼女が立っていた。

 

 

「妹子さん…。髪、切ったんだね」

「はっ、はい…」

「今日はいったいどうしたの? どうして東京へ? 本当にびっくりしたよ」

「清掃氏さん…、私…」

「えっと…、ここじゃなんだから、展望デッキにでも行こうか? 時間はある?」

「はい、大丈夫です」

俺はゆっくりと歩いて展望デッキへ向かった。彼女は何を伝えに来たのだろう、俺は何を話してあげればいいのだろう。エレベーターを降り、展望デッキへ繋がる扉をくぐると、ほのかな照明と滑走路の光が相まった甘美な夜景が眼前に広がった。

 

 

「わぁ、綺麗…」

「そうだね…」

「…空港に戻らせてしまってすみません。私…、何だか清掃氏さんが遠くへ行っちゃう気がして、もう戻って来ない気がして…」

「遠くへなんて行かないし、明日の夜には札幌に戻るよ」

「違うんです…。清掃氏さんの心が知らない場所へ行ってしまう気がして…。今日、高校時代の彼女さんと再会したんですよね?」

「…うん、会ってきたよ。あの時のことを謝る為に、止まったままの時計の針を進める為にね…」

「未来へ進めそうですか?」

「うーん…、どうだろうね。今日からは自分次第かな」

「…良かったです。清掃氏さんなら大丈夫ですよ。私、応援しています!」

「ありがとう。じゃあさ、一緒に未来へ進んでくれないかな?」

「えっ…?!」

「妹子さん…、こんな俺を想ってくれてありがとね。ずっと気付かないふりをしてきたけど、もういいよね」

「えっ、えっと…」

「俺は…、いや、俺もキミが好き」

「清掃氏さん…、私も…」

「でもね、『付き合って下さい』とは言わないよ。なんて言うか分かる?」

「……………」

「今から言うから…、一度しか言わないから…、しっかりと聞いていてね」

「はい…」

「…結婚しよう! 妻と呼べる人は世界に一人しか作れなくて、俺はその一人を妹子さんにしたい」

 

 

 三十を過ぎた冴えない清掃員が、大学受験を間近に控えた高校生に求婚…。こんな俺を追いかけてきた彼女の決意も相当なものだが、俺のそれも負けてはいないだろう。なかなかどうして、随分と思い切りの良い二人である。ただ、言葉にした後に少々踏み込み過ぎた気がした。花束を用意してきたわけでもないし、ポケットに手を入れても指環は出て来ない。いや、そんなことは大した問題ではない。あまりにも唐突で、踏むべきステップをまるで無視して…。彼女を困惑させてしまったかもしれない。案の定、短くて長い沈黙、そして、振り払えない重たい空気がのしかかってきた。

「……………」

「ごっ、ごめん…。いっ、今すぐじゃなくてもいいんだ。妹子さんが大学を卒業してからでも、学校の先生になる夢を叶えた後でも…。あっ、いや、えっと…、俺は妹子さんを"予約"しておきたいんだ。あっ、いや…、モノじゃないよね。ごめん…、何言ってるんだろね、俺…」

もう…、しどろもどろ、ぐだぐだである。

「うっ、嬉しいです…」

「えっ…」

「はいっ! 私も清掃氏さんにとって、たった一人の人になりたいです。新婚の受験生って珍しいですよね」

「あっ、いや…、でも…」

「ダメですか…?」

ダメなわけがない。求婚したのは俺である。最早、言葉は飲み込めない。

「ありがとう…、俺も嬉しいよ。結婚じゃなくて"即婚(そっこん)"だね。でも、お母さんは許してくれるかな…」

「母は清掃氏さんを想う私をいつも応援してくれました。私に笑顔を取り戻してくれた清掃氏さんがずっと一緒にいてくれるって伝えたら、心から喜んでくれると思います」

「良かった…。俺さ、二人で森へ行った時(純情見習い編【第81話 この道の先で待つ人】参照)に思ったんだ。この人の隣にいると、どうしてこんなに心地良いんだろう、ずっとこの人の隣にいたいって…。正直に話すとね、俺はそれまで、今日会ってきた"彼女"と妹子さんを重ねてた。だけど、気付いたんだ。重ねたって同じ人じゃない、俺が隣にいたいと思うのは妹子さんだって…」

「嬉しい…」

「もっと早く伝えられなくてごめんね…。歳も離れているし、妹子さんの夢を壊しちゃう気がして…」

「…お嫁さんになっても夢は叶えられます。大好きな人がいつも隣で私を見ていてくれたら、ただそれだけで力をもらえます」

「妹子さん…。いや、これからは妹子って呼ばせてもらおうかな。妹子さん、あっ、いや、妹子は敬語をやめられる?」

「やめられます!」

「ははは、やめられてないじゃん。ちょっと練習してみようか? 清掃氏さんじゃなくて清掃氏って呼んでみて」

「うっ、うん…。えっ、えっと…」

「妹子…、好きだよ、大好きだよ」

「私も…、清掃氏が好き、大好き」

 

 

 彼女の唇は、柔らかくて、温かくて、優しい味がした。ずっと彼女の体温を感じていたかった、もっと余韻に浸っていたかった。だが、そうもいかない。

「帰りの飛行機、時間は大丈夫?」

「うん…、大丈夫。明日、一緒に帰る」

「えっ?! どっ、どこに泊まるの?」

「空港のホテルに行ってみる」

「あっ、あのさ…、俺も今日は横浜のホテルに泊まるんだけど、一緒に来ない? あっ、いや…、俺は床で寝るから…。それでさ、明日、俺の両親に会っていかない?」

「うっ、うん…。本当に"即婚"だね」

「俺は妹子にぞっこんだから!」

「言うと思った!」

 

 

 こうして俺は33回目の誕生日を"妻"と迎えた。弾力性のあるベッドと軽くて柔らかな布団、優しく部屋を包む甘い香り(純情見習い編【最終話 告白】より抜粋)、それは手を伸ばせば触れられる"妻"の香りである。

 

 

文:清掃氏 絵:ekakie(えかきえ)