秘めた想いを伝える、そう言えば聞こえは悪くない。だが、俺の告白は美しいものではない。言葉にするならば、隠し事を打ち明けるという表現が適切だろう。ずっと黙っているという選択も出来たかもしれない。伝えることで壊れてしまう何かがあるならば、自分一人で背負っていけばいい、そんな優しさだってある。しかし、それではきっと笑えない。俺は笑いたかった。笑ってほしかった。だから、打ち明けた。

 

 

 誕生日の朝、俺は桜木町駅から見える高層ホテルの一室で目を覚ました。弾力性のあるベッドと軽くて柔らかな布団、優しく部屋を包む甘い香り…。だが、いつものせんべい布団から得られる妙な安心感はない。どんなに至れり尽くせりのサービスを受けられたとしても、やはり住み慣れた自宅がいちばんである。俺は起き上がって身支度を済ませ、早々にホテルを後にした。電車を乗り継いで向かった先は、"かつての自宅"である。

 

 

「清掃氏です」

「待ってたわよ! 今、開けるわね」

応答した母の声が弾んでいた。俺のような息子でも大切な家族の一員で、いつだって笑顔で迎えてくれる。

「母さん、元気そうだね。父さんは?」

「居間にいるわよ。清掃氏が帰ってくるって言うから、仕事を休んだのよ」

「そっか…」

廊下を進み、居間の扉を開けると、父がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

「父さん、ご無沙汰しています。仕事、休んだの?」

「まぁな…」

「先週、弟氏が札幌に来たんだ(【第98話 人間が放つ光】参照)」

「聞いたよ。ビックリしたって言ってたぞ。何にビックリしたのかは知らないけどな…」

一瞬、ドキッとした。だが、仕事の事は何も言わなかったようだ。口止めをしたわけではないが、俺の意を汲んでくれたのだろう。父と雑談をしていると、母が紅茶を淹れてきてくれた。

「清掃氏の好きなお砂糖たっぷりのレモンティーだよ。私たちには甘過ぎるから、全部飲んでね」

母はいつだって何だって作り過ぎる。もてなしの気持ちは分かるが、1リットルはさすがに多い。

「いっ、いや…、全部って…。こんなに飲んだらトイレが近くなっちゃうよ…」

「遠慮しないで何度でも行けばいいじゃないの」

「そうだけどさ…」

何度もトイレに…、俺は清掃員として毎日トイレに足を運んでいる。両親がその姿を見たらどう思うだろうか。呆れるのか、悲しむのか、目を覆うのか…。大学まで出させてもらったというのに、俺は何をしているのだろう。

「ところで、仕事は順調なの?」

親としてはいちばん気になることで、質問されるのは仕方がない。

「まぁ、順調かな…」

俺は言葉を濁すことしか出来なかった。それを伝えに来たはずなのに、何も言えなかった。もちろん、根底にあるのは両親を落胆させたくないという思いである。だが、それにしても、情けない…。いったい何の為にここへ来たのだろうか。俺は自己嫌悪の感情に飲み込まれ、トイレへ逃げ込もうとした。その時、母が小さな声で言った。俺は何かを訴えるような表情をしていたのかもしれない。

「清掃氏…、大丈夫? 話したくないなら話さなくてもいいのよ」

「えっ…?!」

「私たちはね、清掃氏が清掃氏でいてくれれば、それでいいのよ。だから、自分が思うように今を精一杯に生きなさい」

「えっ…、なっ、何を言ってるの?」

「……………」

理由は分からないが、両親はきっと今の俺を知っているのだろう。そう確信した俺は、意を決して言葉を絞り出した。

「父さん、母さん、今まで話せなくてごめんね。交通局(車掌)は辞めたんだ。今は駅の清掃をしているよ。大学にまで行かせてもらったのに、本当にごめんね…」

「…知っているわよ。清掃氏が今の会社に入る時にね、身元確認の電話がかかってきたの。保証人の欄にお父さんの名前を書いたでしょ? 電話で確認することは滅多にないみたいなんだけど、遠く離れているし、清掃員になるには経歴が変わっているからね…」

「そっか…、これで二度目だね…」

「そうね、二度目ね…」

振り返れば、あの時も同じだった…。学校へは行かず、ずっと登校しているふりを続けたことを両親は知っていた(【第16話 捨てられたおにぎり】参照)。俺はもう二度と通るまいと決めていた道をまた歩いてしまった。少しも成長していない、あの頃と何も変わっていない。ここにいるのは、未成熟なまま歳だけを重ねていった悲しい自分である。

「情けないよね…。どうして俺はいつまでもこうなんだろ…」

「…清掃氏は誰よりも優しい子だったからね。覚えてる? お婆ちゃんが送ってくれた凧が電線に引っ掛かって取れなくなった時のこと…」

「…覚えてるよ」

「ずっと泣いていた清掃氏はこう言ったよね。凧が取れないのが悲しいんじゃない。お婆ちゃんが手の届かない場所へ行ってしまったみたいで悲しいって…」

「……………」

「きっとね、清掃氏は相手を思う気持ちが強過ぎるんだと思うよ。学校へ行っていなかったことも、今の仕事のことも、私たちを気遣って言えなかったんでしょ? でもね、忘れないでほしいの。私たちが本当に辛いのは、清掃氏が事実を話してくれないことじゃなくて、清掃氏が一人で苦しむことなの」

「母さん…」

「清掃氏…、情けなくなんてないよ。胸を張って"いちばんの清掃員"になればいいじゃない」

「……………」

「清掃氏、お母さんの言う通りだぞ。そんな情けない顔をするな…。国立大学卒の清掃員、カッコイイじゃないか! お前にしかなれない清掃員になってみろよ。技術だっていい、知識だっていい、いや、優しさだっていいぞ。"いちばんの清掃員"になってみろ!」

「父さん…」

俺はコップの中のレモンティーを一気に飲み干した。甘過ぎるくらい甘い一杯だった。

「清掃氏、今日は泊まっていくんでしょ?」

「いや、明日から仕事なんだ。だから、最終便で帰らなきゃいけないんだ」

「寂しいわね…。次はゆっくりしていってね」

「うん…、そうする。それでさ…、帰る前にもう一つ大切な話があるんだ」

「何かしら? 嬉しい話だといいけど…」

「たぶん…、喜んでもらえると思うよ。昨日の夜、決めたことなんだけど…」

「勿体ぶらないで聞かせてよ」

「じっ、実はさ…、結婚したい人がいるんだ」

「えっ…」

「今すぐじゃないよ。だけど、こんな俺を心から想ってくれて…。その人といると、すごく優しい気持ちになれるんだ」

「こんなに嬉しい話が聞けるなんて…。本当におめでとう! 清掃氏のお嫁さんになってくれる人と早く会ってみたいな」

「その人はさ、いつも一生懸命で、真っすぐで、透き通っていて…」

「きっと素敵な人なんだろうね。今度来る時は連れてきてね」

「いや…、来てるんだ」

「えっ…?!」

「今、外で待っていてくれているんだ。窓から見えると思うよ」

 

 

国立大学卒トイレ清掃員

純情見習い編 完

 

 

 

 

 

あとがき

 

 両親へ告白した33回目の誕生日から10年が経った。今、キーボードを打つ俺の横には、優しい妻と可愛い娘がいる。あの頃と変わらないのは、俺が今でも清掃員をしているということだ。職務上の肩書は付いたが、過ごしている日々はあの頃とそう変わらない。

 

「あら、主任さん!」

「主任なんて呼ばないでくださいよ。何かお手伝いすることはありますか?」

「何もしなくていいわよ。あんた、何だか疲れた顔しているわよ。アタシの半分も生きていないのに、そんなにくたびれちゃってどうするの!」

「いっ、いや…、会長の生命力が尋常じゃないんですよ」

「何か悪いことでもしてるんじゃないの? あんなに可愛いお嫁さんを泣かせたら、アタシが許さないわよ!」

「してません、泣かせません! ここ2年くらい、ずっと執筆作業に追われていたんですよ」

「チッピツって何よ? どこの清掃よ?」

「チッピツじゃなくて執筆です。モノを書いていたんですよ。毎日帰宅したら、過去へ出かけていました」

「…心の清掃をしていたのね」

「まぁ、そうとも言えますね」

「人間は今を生きながら過去へも未来へも行けるわね。アタシはね、あんたの未来へ行ったことがあるのよ」

「どっ、どんな未来でした?」

「歳の離れたお嫁さんと可愛いお嬢ちゃんがいたわ」

「それ、未来じゃなくて今です!」

「違うわ…」

「どう違うんですか…?」

「アタシが未来へ行ったのは、あの時よ」

 

 

「あっ、あの時とは?」 

「あんたのお嫁さんに針と糸を貸した時よ。あんた、気付いてる?」

「いっ、いや…、いったい何の事だか…」

「今日帰ったら、青いお化けのTシャツをよく見てみなさい」

「スライムのTシャツですね…(【第81話 この道の先で待つ人】参照)。あのTシャツに何が…」

 

 

帰宅後、俺はTシャツを手に取り、隅々を見回した。だが、どこにも変わったところはない。試しに着てみたが、それでも分からない。諦めて本人に聞いてみようと服を脱いだ時、洗濯のタグが目に留まった。そうか…、ここしかないな…。俺はタグをめくった。そこにあったのは、白い糸で縫い付けられていた2文字だった。スキ…。

 

 

上半身裸のまま立ち尽くしていると、娘が入って来た。

「お母さーん、お父さんが裸になってるよ」

娘の声を聞き、妻が慌てた顔をして歩いてきた。

「あなた、どうしたの?」

「いっ、いや…、この文字が…」

「あっ…」

妻は恥ずかしそうに顔を赤らめた。俺はそんな妻がたまらなく愛しくなった。

「妹子…、俺もスキだよ。ありがとう」

「恥ずかしい…。でも、私もあなたがダイスキ…」

見つめ合っていると、娘が不満そうな顔をして言った。

「ねぇねぇ、娘子は?」

「お父さんもお母さんも娘子がダイスキだよ。よしっ、今日は娘子の好きなケーキを買いに行こう!」

「うんっ! 娘子もお父さんとお母さんがダイスキ!」

 

 

 失敗ばかりの、挫折ばかりの人生だった。成功という言葉の意味が、名声や社会的地位を得ることだとしたら、俺はその対極にいる。だが、惨めだとも憐れだとも思わない。俺には、家族も仲間もいる。笑うことだって、泣くことだって、出来る。何よりも、そんな自分を幸せだと思える。成功することが幸せな人生なのではない。幸せだと思える人生を送ることが成功なのだ。

 

 幸せはどこにだって潜んでいる。移ろう季節を感じられること、ありがとうと微笑んでくれる人がいること、自分を支えてくれる人がいること…。それは少しも特別なことではないかもしれない。だが、俺は確かに幸せを感じる。幸せとは、当たり前の日常を生きられることではないだろうか。俺はそのことにやっと気付けた。ちっぽけでもいい。そんな幸せをたくさん集めていきたい。家族と、共に…。

 

 

 

 

 

読んで下さった全ての皆様へ

 

 約2年間、 拙いブログにお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。読んで下さる方がいる、その事実が何よりの励みになりました。このブログは、皆様と共に作り上げたものです。

 

 過ぎた時間を現在進行形の今として書くことの是非につきましては、常に迷いがありました。少しでも早く今を伝えたい、そんな葛藤と戦い続けた2年間でした。気付かれていた方もおられるかと思いますが、【第38話 そこにこそ導かれる】にこんな一文があります。

 

上手く書いているよね。どうやって今へ繋げていくのかを楽しみにしているよ。

 

 事実を知ってしまえば、一目瞭然であると思います。また、過去であることを暗示させている箇所は、ここだけではありません。それらは気付かずに書いたものではなく、気付いていただきたいという思いの下に残したものです。しかし、私がどのような思いを持っていたとしても、それは言葉にしなければ伝わりません。ブログという顔の見えない世界においては、尚更のことです。本当に申し訳ございませんでした。

 

 このブログの今後につきましては、未だに結論を出せずにいます。その為、これまでに書いてきたものを【純情見習い編】とし、含みを残した終わり方にしました。事実を知った上で、まだ読みたいと仰って下さる方がおられるならば、【結婚編】や【育児編】、あるいは【出世編】といったスピンオフを書くことも考えています。お叱りの言葉を含めまして、皆様のお考えをお聞かせいただけましたら幸いです。

 

平成29年10月21日  清掃氏

 

 

 

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