行き詰まることがある。だが、それは行き止まりとは違う。引き返してしまえば、見えるはずの景色が二度と見えなくなってしまうかもしれない。長い時間をかけて積み重ねてきたものを、ただ一時の感情で投げ出さないでほしい。結果云々を言っているわけではない。続けることでしか見えない景色、歩き続けることでしか辿り着けない場所がある。

 

 

 

 ある朝のことである。駅舎の外回りを掃いていると、婆さんが俺を待ち構えるように立っていた。

「会長、おはようございます。どうしたんですか?」

「清掃氏さんにお願いがあるのよ」

「何でしょうか?」

婆さんは遠くを見ながら言った。

 

 

「妹子さんを救ってあげてほしいのよ」

「…何かありましたか?」

「最近、ちょっと元気がない気がするのよ。毎日、アタシたちババアの群れの中で仕事をして、帰ったら夜遅くまで勉強して、ずっとその繰り返しでしょ。張り詰めっ放しじゃ心が折れちゃうわ」

「そうですね…、俺も同じことを感じていました。勤務日数を減らして勉強を優先した方が良いかもしれませんね」

「違うわ、そうじゃないわ。あのコにとっては、仕事に来ることも頑張って勉強をする理由になっていると思うの。だから、息抜きをさせてあげてほしいのよ。行き詰まる前に、息を抜かなきゃダメなのよ」

「なるほど…。でも、どうすれば…?」

「それはあんたが考えるのよ」

「分かりました。少し考えてみます」

そうは言ったものの、すぐには思い浮かばなかった。どんな言葉をかければ良いのか、何をしてあげれば良いのか…。

 

 気分転換…、俺ならば何をするだろう。たぶん、日常から離れてみる。普段はしないことをしてみたり、少し遠くへ行ってみたり…。だが、俺は彼女の趣味や嗜好を知らない。行きたくもない食事や観たくもない映画に付き合わせてしまっては、本末転倒である。余計に疲れてしまうだろう。俺は思い切って彼女に尋ねてみることにした。

「いっ、妹子さん…、らっ、来週の日曜日って時間あるかな?」

「えっ…。なっ、何でですか?」

「勉強頑張ってるみたいだし、たまには息抜きでもどうかなって思ってさ」

「みんなで何かするんですか?」

「いっ、いや…、俺一人なんだけど…。あっ、嫌だったら断ってくれて大丈夫だよ」

「えっ、えっと…、ものすごく時間あります!」

「じゃっ、じゃあ、どこか行こうか? 妹子さんはどこへ行きたい?」

「わっ、私、人がたくさんいる所は苦手なんです。だから、森に行きたいです」

「もっ、森!?」

「はい、何だか元気をもらえる気がするんです」

「なっ、なるほど…。で、どこの森へ?」

「それは清掃氏さんにお任せします」

「うーん…、さすがに森は分からんな」

「あはは、そうですよね。私、ドライブとかしたことがないので、清掃氏さんが好きなように走ってくれていいですよ。それで、良さそうな森があったら停めて下さい」

「良さそうな森と言われても…。まぁ、とにかく走ってみるか…」

「はっ、はい、それで大丈夫です。すごく楽しみです!」

「ははは、そう言ってくれると俺も嬉しいよ。ありがとう!」

「わっ、私こそありがとうございます!」

「じゃ、来週の日曜日の10時でいいかな? 迎えに行くね!」

「はっ、はい、その日は早起きして待っています!」

 

 

 前日の夜はなかなか寝付けなかった。俺は相手が誰であれ、長い時間二人きりになるのが苦手だ。沈黙の壁にぶつかると、早く何か話さなければと焦ってしまう。ましてや、車での移動となると、心地よい空間を保つ為には会話が必須である。どもってしまったり、同じ言葉を続けてしまったり、そんな俺を見たら彼女はどう思うだろうか。いや、別にどう思われてもいい。ただ、逆に気を遣わせるようなことだけはしたくなかった。

 

 最後に見た時間は午前3時だった。それから7時半までの記憶はない。休日の睡眠時間としては少ないが、ふらふらになる程ではない。俺は少し熱めのシャワーを浴びて目を覚まし、駐車場で車を磨いてから彼女の家に向かった。アパートの前に着くと、母親が一人で俺を待っていた。

 

 

「お母さん、おはようございます。今日は何だかすみません。夕方までには戻りますので…」

「清掃氏さん、おはようございます。どうして謝るのですか? 娘の気分転換の為に誘って下さったんですよね。本当にありがとうございます」

「いっ、いえ…、何かありましたら、すぐにご連絡いたしますので…」

「今日は娘をよろしくお願いいたします。休みの日に遊びに行くなんて、小学生の時以来だと思いますよ。母親としても嬉しいです。それで…、娘から清掃氏さんにお願いがあるようなので、ちょっと家に上がって下さい」

「はっ、はい」

 

 母親に促されて玄関を跨ぐと、彼女は小さな箱を抱えて照れくさそうに立っていた。

「妹子さん、おはよう!」

「おっ、おはようございます」

「そっ、その箱は?」

「今日のお礼にプレゼントを用意したんです」

「おっ、お礼って…、まだ何もしてないけど」

「わっ、私なんかを誘ってくれたお礼です。箱の中身はTシャツなんですけど、良かったらそれを着て行きませんか?」

「いいよ。だけど、着替える場所が…」

「私の部屋を使って下さい。私も向こうで着替えてきます」

俺は小さな箱を受け取り、部屋の引き戸を閉めた。ゆっくりとガムテープを剥がすと、青いTシャツが出てきた。

「んっ?! こっ、これを着て森へ行くと?!」

 

 

思わず独り言を口走ってしまった。正直、躊躇いと恥じらいの感情を否定できなかった。だが、自分の為に選んでくれたこと、この服を着た俺を想像してくれたこと、それらを思うと、着ないという選択肢にはバツしか付けられなかった。俺は着ていた服を脱ぎ、Tシャツに首を通した。窓ガラスにうっすらと映った自分の姿を見ると、それほど違和感は感じなかった。だが…、しかし…、部屋を出るとスライムがもう一匹いた。

 

 

「おっ、お揃いなんだね」

「いっ、嫌だったら無理しないで下さい」

「あっ、いや…、全然大丈夫だよ。妹子さんもドラクエが好きなんだね。でもさ、森で勇者の御一行様に遭遇したらどうするの? メタルスライムじゃないから逃げられないよ」

「その時は仲間にしてほしそうな目で見ればいいんです」

「ははは、そうだね。じゃあ、早速冒険の旅に出発しようか?」

「はっ、はい!」

俺は彼女の母親に自分の電話番号を伝え、家を出た。母親は何度も手を振って見送ってくれた。

 

 30分くらい走ると、人間の創造物は道路とガードレールだけになり、緑の景色が広がった。

「車酔いとかは大丈夫? どこもかしこも森だね。この道はしばらくコンビニもないけど、お昼はどうする?」

「おっ、お弁当を作ってきたんです」

「あっ、ありがとう」

「レジャーシートを持ってきたので、森の中で食べませんか?」

「もっ、森ってどこの森で?」

「どこでもいいですよ。良さそうな場所があったら停めて下さい」

「うん、分かった。妹子さんもいい場所を見つけたら言ってね」

 

 しばらく走り続けると、道路が広がっていて車を停められる場所を見つけた。ガードレールの隙間には、森の奥へ向かう細い獣道があった。

「ここでどうかな?」

「この道、どこに続いているんですかね。ちょっと行ってみませんか?」

 

 

「いっ、いや…、俺はちょっと危険を感じるけど…」

「きっと大丈夫ですよ。行ってみて怖そうだったら引き返しましょう」

俺はあまり気が進まなかったが、彼女が楽しそうなので車を降りて進んでみた。2~3分歩くと、少し開(ひら)けた場所に出た。耳を澄ますと、川のせせらぎも聞こえる。

「自然のエネルギーを感じるね」

「清掃氏さん、ここで弁当を食べませんか?」

「こっ、ここで?! うーん…、あまりに人気(ひとけ)がなくて怖くない?」

「わっ、私は清掃氏さんがいてくれるから大丈夫です」

「いっ、いや…、俺なんて頼りにならないよ。まぁ、そんなに長い時間じゃなければ大丈夫だと思うけど…」

「そうですよ、お弁当を食べるくらいなら大丈夫ですよ」

「うん…。じゃ、食べようか」

 

 

 おにぎりを頬張っていると、ガサガサと草をかき分ける音が聞こえた。

「いっ、妹子さん…、今の音、聞こえた?」

「はっ、はい…。森のクマさんが何か届けに来たんですかね」

 

 

「いっ、いや…、そんなに優しいクマさんはいない気が…。妹子さん、ちょっと天然なんじゃ…」

俺は近くに落ちていた木の枝を手に取った。身構えていると、クマではなく老夫婦が歩いてきた。

 

 

「あら、可愛い奥さんね! 邪魔しちゃってごめんなさいね」

「いっ、いや…、奥さんじゃないです。こんな所で何をしてるんですか?」

「タケノコ狩りよ。たくさん取れたから、少しあげるわね。帰ったら奥さんに茹でてもらいなさい」

「いっ、いや…、だから奥さんじゃありませんて…」

「ワタシも若い頃は、この人に森に連れ込まれたのよ」

「いっ、いや…、連れ込まれたのは俺です…」

「そうそう、ここから車で5分くらいの所にね、お婆さんがやっている直売所があるわよ。安くて美味しい野菜がたくさん売っているから、寄ってみるといいわよ」

俺の話など何も聞いてくれなかった。老夫婦は自分が言いたいことだけを話して去っていった。

「いやぁ、クマさんじゃなくて良かったね。お弁当を食べたら、直売所へ行ってみる?」

「はい、行ってみたいです!」

 

 車に戻り、森のクマさんを口ずさみながら道を進むと、小さな直売所が見えた。俺はそれほど興味はなかったが、彼女が母親に野菜を買って帰りたいと言うので足を運んでみた。

 

 

「はいっ、いらっしゃい!」

「どっ、どれも新鮮で美味しそうですね」

「奥さん、見る目あるねぇ。ウチの野菜はね、形は悪いけど味は抜群だよ」

「私、形なんて気にしません」

俺はその前に奥さんではないと否定してほしかった。奥さんでなければ、恋人でもない。仕事仲間の一人である。

「形の悪い野菜はね、問屋に買い取ってもらえないんだよ。人間だって不揃いなのにねぇ…」

俺はその一言を耳にして、息を呑まずにはいられなかった。そう、人間だって不揃いである。そして、だからこそ、自分とは違う誰かに惹かれ、憧れる。全ての人間が同じ顔をして、同じ言葉を話し、同じ夢を見ていたら、そこには恋も愛も生まれないだろう。

「あんたたちだってね、姿形が違うから同じ服を着て喜べるのよ。ロボットに同じ格好をさせたって、何も感じないでしょ?」

「ふっ、不揃いって素敵ですよね!」

「さすが奥さん! そうよね! 野菜だってね、一つ一つ形が違って当たり前なのよ。同じものなんて作れないし、私はそんなもの作りたくないわ」

「おばさん、私、小学校の先生になるのが夢なんです。夢を叶えられたら、子供たちに今の話をしたいと思います」

「あんたはきっといい先生になれるよ。学校はね、同じ人間を作る為の場所じゃなくて、良い意味で子供たちを不揃いにする為の場所なのよ」

「おばさん…、私、感動しました。野菜、いっぱい買います!」

俺には感動するのと野菜をたくさん買うという行為がどうしても結び付けられなかった。だが、止める理由もない。俺は箱いっぱいに野菜を詰める彼女をただ黙って見ていた。

「ほらっ、旦那さん、ボーっとしていないで奥さんの箱を持ってあげなさい」

「はっ、はい。あっ、いや…、旦那でも奥さんでもないんだけど…」

「おばさん、夢が叶ったらまた来ます。だから、それまでお店を開いていて下さいね」

「そうかい、そうかい。楽しみに待ってるよ」

 

 直売所を出た後は、湖に寄り、スワンボートに乗った。いや、乗せられたと言った方が正しいだろう。

 

 

「森の中も水の上も気持ちいいですね。今日は本当にありがとうございました」

「いや、こちらこそ…。俺も妹子さんの意外な一面をたくさん見られて楽しかったよ。たまにはこういう気分転換もいいかもね」

「そうですね。実はちょっともやもやしていたんですけど、またやる気が出てきました」

「…どうしてもやもやしていたの?」

「上手く言えないんですけど、何の為に夢を叶えたいのか分からなくなったんです」

「……………」

「でも、それが分かったというか目標が見えたんです」

「……………」

「私には私を応援してくれる人がいて、未来には夢を叶えた私を待っていてくれる人がいるんじゃないかなって思えたんです」

「うん、そうだね。待っている人…、いると思うよ」

「せっ、清掃氏さんは待っていてくれますか?」

「うん、待ってるよ」

「じゃあ、その時はまた私の好きな場所に連れていって下さい。今度は森じゃありませんよ」

「えっ、どこなの?」

「秘密です!」

森の次は海だろうか。いや、都会のビルの谷間だろうか。あれこれと想像を巡らせたが、確信に至る景色には辿り着けなかった。だが、その過程でぼんやりと浮かんだ風景がある。それは彼女が望む場所ではないかもしれない。しかし、俺はこう思った。俺の好きな場所は、キミのいる場所なんじゃないかと…。

 

 

 生きていれば、息は詰まることも切れることもある。躓くことだって、目を背けたくなることだって、たくさんある。だが、心だけは望む場所を見ていたい。望むこと、夢見ること、そこに向かって歩くこと。生きていることを実感させてくれるのは、そんな自分ではないだろうか。だから、俺は歩いていく。この道の先で俺を待つ、その人が立つ場所に向かって…。