ここは薄暗い地下鉄の駅で、俺たちは薄汚れた作業着を着た清掃員だ。だが、光はある。どんな場所にも光は差し込む。そこに人間がいる限り、闇に飲み込まれることはない。それは人間が光そのものだからである。希望や憧れ、そして夢、人間はいつだって、どこでだって輝ける。この世界を灯しているのは、人間が放つ光である。

 

 

 誕生日を間近に控えた週末のある日である。妹子さんとエスカレーターの清掃に向かっていると、目じりを下げ、にやけた顔をした婆さんたちが歩いてきた。駅でロケ中のタレントでも見かけたのだろうか。

 

 

「会長、サブさん、ニヤニヤしてどうしたんですか?」

「優しいイケメンに声を掛けられたのよ」

「なんて声を掛けられたんですか?」

「目が合ったらね、『大変なお仕事ですよね。本当にお疲れ様です』って話しかけられたのよ」

「それは嬉しいですね。励みになりますし、やる気が出ますよね」

「やる気満々よ!」

「じゃあ、やる気満々のうちに午前中の作業を終わらせましょう」

「そうね! まずは、あのイケメンの前を掃いてくるわ!」

「いっ、いや…、そんなに満々にならなくても…」

「待ち合わせをしているみたいだったのよ。早く行かないと居なくなっちゃうわ」

「場所はどこですか?」

「オブゼの所よ」

「オブジェの所ですね。もしかして、その人は杖をついていましたか?」

「なんで分かるのよ?」

「いや、たぶんその人は俺と待ち合わせをしている人です。約束した時間よりだいぶ早いですけど…。行ってみましょう!」

俺は妹子さんと話しながら、婆さんたちの後ろを歩いてその場所へ向かった。

 

 彼はぼんやりとオブジェを眺めていた。近付いても、俺の存在には気付いてくれない。だが、それは当然である。彼は俺が清掃員をしていることを知らない。俺は"そのままの今"を伝えたくて、旅行に来る彼には何も話さずに待ち合わせをしたのである。まさかバケツと雑巾を手にして現れるとは、思いもしないだろう。柱の陰に隠れていると、婆さんが彼に声を掛けた。

 

 

「お客さん、清掃氏さんの知り合いかい?」

「はい、清掃氏は私の兄ですが…」

「きぇぇぇぇぇい!」

婆さんたちの奇声、いや、驚き声がコンコースに響いた。妹子さんは口をぽかんと開けている。俺は横から囁くようにして、彼に話しかけた。

「遠くまでお疲れ様です。身体は大丈夫ですか?」

「……!! にっ、兄さん、何やってるの? その格好は?!」

「見ての通り清掃員だよ」

「地下鉄の車掌は辞めたの?」

「人身事故に遭遇してさ…、それから心が辛くなって…(【第79話 生まれてきた理由】参照)」

「…そんなことがあったんだ。でも、駅の掃除をしているなんてビックリだよ。兄さんらしいけどさ…」

「ははは、そうだよな」

「父さんや母さんは知ってるの?」

「いや…、知らないよ(【第47話 見たことのない色】参照)。来週、実家に帰って話すつもりなんだ。また心配させちゃうな…」

「仕事の心配はしないだろうけど、違う心配はしてたよ。アイツはいつまで一人でふらふらしてるんだって…」

「いや、それはな…」

予期せぬカウンターを受けてまごついていると、婆さんが口を挟んできた。

「そうよ! あんたいつまで独り者でいるのよ? もたもたしていると誰もいなくなっちゃうわよ。そうよね、妹子さん?」

「えっ!? わっ、私はいなくなりませんよ。でも…」

彼女が『でも』の後に続けたかった言葉は何だろう。いや、考えなくても分かる。俺は分からないふりをしているだけだ。届かない想いを持ち続けるのは、辛く切ない。恋愛感情とは違うが、俺にも持ち続けている想いがある。

「んっ? 兄さんの彼女ですか?」

「いっ、いえ、私は違います」

「そうですか…、あなたのことだと思いました。兄から聞いていますよ。いつも一生懸命で力になってあげたい人がいるって…」

「わっ、私のことじゃないと思います」

「…兄さんさ、いつまでも俺に気を遣うのはやめてくれよ。知ってるよ、俺が出来ないことを兄さんがしないようにしているのは…(【第59話 今に続く物語】参照)」

「いっ、いや…、そんなことはしてないよ」

「…俺はさ、こんな身体だから一人で生きていくつもりだけど、兄さんまで付き合う必要はないよ。その優しさがさ、たまらなく苦しい時もあるんだよ」

「そっか…、そうだよな…。分かったよ…、今まで悪かったな…」

相手を思う優しさが相手を苦しめることもある。いや、違う…。俺が思っていたのは彼ではなく、自分なのかもしれない。彼と同じように生きることが償いになると信じていた。だが、それは独り善がりでしか、自己満足でしかなかった。優しさなんかじゃない。俺は彼の身体を傷つけただけではなく、心まで苦しめてしまった。なんて愚かな人間なのだろう。

 

 

 彼の言葉がなければ、俺はまた同じ過ちを繰り返すところだった。俺はまだ彼女の想いを受けとめることは出来ない。彼女を傷つけまいと思わせぶりな言葉を並べてきたが、それが彼女を苦しめていることにやっと気付けた。

「妹子さん…、俺は来週、"彼女"(【第16話 捨てられたおにぎり】参照)と会ってくるんだ。前に話した人生の恩人だよ」

「そっ、そうなんですね…。清掃氏さんと彼女さんにとって素敵な日になるように祈っています…」

「どうだろね…。でも…、素敵な日にする為に会うんじゃない。過去を過去にしてくるんだ。視界を遮る過去を胸の高さに下ろしてくるんだよ。目の前にいる人をしっかり見る為にさ」

「……………」

「両親にも今の自分をしっかりと伝えてくるよ。だから…、みんなで待っててね」

「はい…、待ってます。私には会長さんがついていて下さるので大丈夫です」

 

 

「あんた、ちゃんとひよこサブレを買って来るのよ!」

「会長、ひよこサブレは福岡です。神奈川のサブレは鳩ですよ」

「どっちでもいいのよ! それにしても…、あんたも大きくなったわね。最初はひよこだったけど、やっと鳩になったわ」

「いっ、いや…、ひよこは鳩にはなりませんよ」

「違うわよ。ひよっこが立派に成長したってことよ。あんたはよく頑張ったわ」

「かっ、会長…」

「あんたや妹子さんは人の心まで磨ける最高の清掃員よ。ほらっ、仕事よ! アタシとサブさんはイケメンさんとお茶してくるわ」

「えっ…?! じっ、自分はこれから大通公園にテレビ塔を見に行こうかと…」

「後でアタシが案内してあげるわよ、ガハハハハ」

彼は婆さんたちに連行されて、駅の奥へ消えていった。きっと彼もこの場所の、そして、ここにいる人たちの温かさを感じてくれただろう。しばらくして詰所から出てきた彼は、すっかり婆さんたちと打ち解けていた。俺はそんな彼を呼び、ポケットに忍ばせていたボールを手渡した。

 

 

「んっ? 兄さん、このボールは??」

「最後にキャッチボールをしたボールだよ(【第59話 今に続く物語】参照)。ほらっ、笑ってるだろ? 俺もやっと笑えたよ」

 

 

「兄さん…」

「受け取れないかな…」

「うん…、今はまだ受け取れない。兄さんが自分の幸せをいちばんに考えてくれた時に受け取るよ。その為に家(実家)に行くんでしょ?」

「そうかもね…」

「俺もここにいる人たちと同じように待ってるから…」

「分かった…。また、来週な…」

 

 今、俺はどんな光を放っているのだろう。小さくてもいい、誰かを照らしたい。光を感じてもらえる、そんな人間でありたい。