子供の頃、ここは造船所が立ち並び、作業服姿の労働者が行き交う街だった。その面影は、空に向かってそびえ立つビルの一角に、僅かばかり残されているだけで、今の街の姿は異世界の未来のようである。ただ、一つだけ、あの頃と少しも変わらないこと、そして、これからも永遠に変わらないことがある。それは、自分が生まれ育った街であるということだ。
この日、俺は着慣れないスーツで身を包(くる)み、この街に足を運んだ。俺が向かった先は、ここから約30分の場所にある横浜国立大学だ。思い出の詰まった場所へ行くというのに、心は浮かず、足は竦(すく)んだ。だが、仲間たちの誘いは断われなかった。いや、断れなかったのではなく、断らなかったのかもしれない。浮かない心の裏側にある、「故郷の空を見たい」、「仲間たちと会いたい」、そんな気持ちを断ち切れなかったのである。
久しぶりに足を踏み入れた母校は、幾分洗練されていた。在学当時に感じた場末感は薄れていた気がする。
待ち合わせ場所に着くと、懐かしい顔が並んでいた。
「おぉ、清掃氏じゃねーか、元気にしていたか?」
「まっ、まぁな」
「仕事は順調か?」
「何度か転職したが、楽しくやってるよ」
「今はどんな仕事?」
「まぁ、俺の話はつまらないからいいよ。先生はまだ来てないのか?」
「…先生は後から会場に来るよ」
そう、この日は大学の同窓会だった。ゼミ仲間の一人が海外赴任をするというので、壮行会を兼ねて皆で集まることになったのだ。出席者が揃うと、皆でタクシーに分乗して会場のホテルへ向かった。道中の車内、皆がそれぞれの近況を面白おかしく聞かせてくれた。だが、俺はただ頷き、作り笑いを浮かべ、言葉を濁すことしかできなかった。会場に入ってからも、俺は部屋の片隅で煙草を燻(くゆ)らせるばかりだった。皆の輪に入りたい、話したい、笑いたい…。空気を、空間を、時間を共有したい…。だが、俺は……。
ここには、職業で人を見下したり、それを憐れんだり、そんなちっぽけ人間は誰もいやしない。そんなことは分かっていた。それなのに俺は…。劣等感、自尊心、虚栄心、そんなつまらない感情に囚われ、一人で殻に閉じこもっていた。まるで被害妄想、ちんけな人間である。
灰皿が吸い殻で覆い尽くされたので、俺は視線を泳がせてウェイターを探した。…と、その時である。目が…、合ってしまった。
「きょっ、教授…」
「清掃氏くん、何だか元気がないようだね」
「いっ、いえ、そのようなことは…」
「ブログ…、読ませてもらっているよ。お婆さんの出てくるブログ、清掃氏くんのだよね? なかなか上手く書いているよね。どうやって今へ繋げていくのかを楽しみにしているよ」
「えっ?! なっ、何故?」
思わず声を上げてしまった。その声で周囲の視線まで引いてしまった。無に徹し、空気と同化していたというのに…。
「ウチの家内がね、大学で清掃のパートを始めたんだけど、仕事を探す時にパソコンで検索をかけたら、興味深いタイトルに目が止まってね。プロフィールを見たら、出身校といい、誕生日といい、これは清掃氏くんではないかと…」
「なっ、なるほど…」
「恥ずかしがることなんて何もないよ。社会の縁の下の力持ちじゃないか! 私のようにね、永遠に役に立たないかもしれない研究をしているよりも、ずっと社会の力になっているよ」
「いっ、いえ…」
「ウチの大学の卒業生にはね、政治家もいるし、上場企業の取締役もいるし、歌手やタレントとして名を上げた人、ニュースキャスターとして活躍している人もいる。その中でね、清掃員という職業に就いているのは、おそらく清掃氏くんしかいないと思う。それはね、唯一無二の卒業生だってことだよ」
「確かに唯一無二でしょうね、良い意味でも悪い意味でも…」
「悪い意味なんてないよ。キミがそう感じているのだとしたら、それは思い違いをしているだけだよ」
「……………」
「唯一無二ということはね、まだ誰も通ったことのない道を歩いているということだよ。それはね、他の人には見えないもの、見つけられないものを手に取れる可能性を持っているということだよ」
「きょっ、教授…」
「おい、みんなっ! 清掃氏くんに乾杯だ!」
「いっ、いや、それは…」
教授の一言で皆が集まってきた。
「何だよ、清掃氏! 俺たちが馬鹿にするとでも思ったのか?」
「そうは思ってないけどさ…。上場企業にお勤めの皆さん、お役人の皆さんに、『清掃員やってます』とはなかなか言えないだろ…」
「お前の生き方、俺は尊敬するし、好きだけどな」
「好き勝手に生きているだけさ。真似はするなよ」
「いや、真似はしたくないけど…」
「何だよそれ」
「よしっ、取りあえず乾杯だ!」
人格者である恩師、そして素晴らしい仲間たちと巡り合えた人生に感謝したい。教授がくれた『唯一無二』という励ましの言葉…、それは俺に限ったことではない。人は誰しも唯一無二の存在だ。自分と全く同じ人間など、世界のどこを探しても見つかりはしない。俺自身を含め、時に人は心を失い、その存在価値に疑念を抱く。だが、考えてみたい。誰かとの比較で秀でた部分がなければ、自分は無価値な人間なのか?
比較によって知り得(う)るのは、自分の立ち位置に過ぎない。欠けている何かがあっても、他者とは違うどこかがあっても、それは断じて人格や存在そのものの否定ではない。人間の存在価値は、他者との比較やその優劣で決まるものではないはずだ。植物に水をやる、落ちているゴミを拾う、あるいは誰かに優しい言葉をかける、俺はそれだけでも生を受けた価値があると思う。
唯一無二の存在である自分を知り、他者に感謝をしながら生きていく。笑顔は、希望は、幸福は…、そこにこそ導かれる。