時は進む。何もしなくても次の一秒はやってくる。そこに人間の手が入る余地はない。ならば、人間は時に対して無力なのか。そんなことはない。人間は自らの意志で次の一秒を作ることができる。したい、なりたい、変えたい、そんな思いが時を作る。

 

 

 この日、俺は窓に打ち付ける雨の音で目が覚めた。カーテンを開けると、大きな水たまりを避(よ)けながら駅へ向かう人たちが見えた。こんな日の清掃は骨が折れる。床を拭いているすぐ横で、お客は傘に残った雨の滴をバサバサと落としていく。もちろん、それは自然な行動で、誰に責められるものでもない。清掃員はそんな床をただ黙々と拭き続ける。拭いて、絞って…、拭いて、絞って…、終わりが見えずに心が折れそうになることもある。それでも続けられるのは、強い使命感があるからだ。誰かに感謝されたくてやるのではない。誰一人として滑って怪我をする人がいないように、俺たちはそんな思いを持って床を拭いている。

 

 今日は俺も妹子さんも休みで、若者はいない。婆さんたちだけで大丈夫だろうか。手伝いに行きたかった。だが、予定を放り出して駅(仕事)へ行くことは、笑顔で送り出してくれた皆を悲しませることである。俺は地下鉄には乗らず、車で空港へ向かった。

 

 搭乗手続きを済ませ、離着陸する飛行機を眺めていると、妹子さんからメールが届いた。"応援しています"、一言だけのメールだった。"ありがとう"、俺は同じように一言だけの返事を送り、飛行機に乗った。思えば、これから会う"彼女"とも、こんなふうに一言だけのやり取りをしたことがある(【第16話 捨てられたおにぎり】参照)。俺は"あの頃"を思い出さずにはいられなかった。

 

 

 羽田空港には定刻より5分ほど早く着いた。久しぶりの東京…、いつもならワクワクするのに緊張で食事も喉を通らなかった。俺は売店で栄養ドリンクを購入し、それを一気に飲み干して、赤い電車のホームへ向かった。"彼女"との待ち合わせ時間は夕方で、それまではだいぶ時間がある。俺は寄りたかった場所へ向かう電車に乗った。

 

 降りた駅は京急富岡駅である。ここから少し歩いた場所に、"彼女"と出会う前に通っていた高校がある。この高校を中退してから、俺の人生は大きく変わった。明日の自分を何となく想像できる毎日が、今を生きることで精一杯の毎日になった。あの時…、俺はどうして学校へ行かなくなったのだろう。本当に弱い心を隠したかっただけなのか、それをもう一度考えてみたかった。

 

 校門の前へ着くと、当時の担任の先生が俺を待っていてくれた。先生とは高校中退後も手紙のやり取りを続け、今日足を運ぶことを伝えていたのだ。

 

 

「先生!」

「おぉ、清掃氏くんか! すっかり落ち着いたな…」

「その節はご迷惑をおかけいたしました…」

「本当に迷惑をかけられたよ。よりによって俺の授業中に出て行って、それっきり来ないなんてさ…」

「いっ、いや…、先生の授業だったのは偶々(たまたま)ですよ」

「ははは、分かってるよ。おかげで清掃氏くんのことは忘れないよ」

「いや…、忘れてもいいですけど…。またここ(この学校)に戻られたのですね」

「去年からまたここにいるんだ。もう今は清掃氏くんみたいな生徒はいないぞ」

「でしょうね…。あの頃を思い出して、花火でも打ち上げましょうか」

「そんなこともあったな。授業中に爆竹を鳴らしたり、ロケット花火を打ち上げたり、俺には清掃氏くんの心が全く分からなかったよ」

「自分でも分からないんです。だから、今日ここへ来ました」

「そうか…。ちょっと校門をくぐってみるか?」

「はい…」

 

 

「懐かしいだろ。校名が変わった以外は、清掃氏くんがいた時と同じだと思うよ」

「そうですね…。何も変わっていませんね」

「でも、清掃氏くんは変わったよな。まさかあんな進学校に入り直して、大学にまで行くなんて…」

「たぶん…、悔しかったからだと思います」

そうだ…、俺は悔しかったんだ。学校を辞めたことじゃない。本当はクラスの輪に入りたかったんだ。クラスメートと笑い合いたかったんだ。だけど、出来なかった。高校は、小さな頃から一緒だった仲間がいる小中学校とは違う。どうしたら仲良くなれるのか、どうしたら友達を作れるのか、それが分からなかった。だから、俺は人と違うことをして気を引こうとしたんだ。でも、そんなことをしたって引けるわけがない。引くどころか引かれてしまった。一人は寂しい…、楽しそうにしているクラスメートたちが羨ましい…、不器用な自分が…、悔しい…。強がっていたけれど、心は悲鳴を上げていたんだ。だから…、俺は逃げ出したんだ。そして…、自分の存在を認めてくれた"彼女"に縋(すが)ったんだ。

 

「…時が経つと見えるものってあるよな。あの時、清掃氏くんの弱さや悲しみに気付いてあげられなくて申し訳なかった…」

「いえ…、先生には何の罪もありませんよ。それに…、今日ここで先生と話せたから、やっと分かったんです」

「それで…、その"彼女"とはどうしたんだ? まさか結婚したとか?」

「結婚…、出来れば良かったですね。そうしたいと思っていました。だけど…、俺はそんな大切な人を傷つけてしまったんです。俺は"彼女"を…」

「…何があったのかは聞かないよ。でも、その人は本当に清掃氏くんに傷つけられたって思っているのかな? もしかしたら、その人も清掃氏くんを苦しめてしまったって思っているかもしれないよ」

「今日…、これから会うんです。15年ぶりに…」

「そうか…。少ししか話せなかったけど、清掃氏くんは立派な大人になったな。あの悪ガキがなぁ…」

「悪ガキは余計ですよ。貴重なお昼休みにお時間を取って下さって、本当にありがとうございました。また来ますね」

「いつでも待ってるぞ」 

「はい!」

「…頑張れよ。カッコ悪くたって、情けなくたって、不器用だっていいじゃないか。心はな、考えれば考えるほど迷いが深くなるんだ。しゃぼん玉を吹き出す時に、考え込む奴はいないだろ? 伝えたい思いは、そっと宙に浮かべてやればいいんだよ。儚く消えてしまうのか、手の届かない場所へ飛んで行ってしまうのか、それとも優しく二人を包むのか、それはどれだけ透き通ったしゃぼん玉を吹き出せるかだ」

さすが現代文の先生だと思った。もう少し学校へ行って授業を受ければ良かった。難しい言葉なんていらないんだ、考えることなんて何もないんだ、そのままの自分でいいんだ。俺は生涯、この"特別授業"を忘れない。

 

 

 俺は校舎に戻る先生を見送り、駅へ戻った。これから電車を乗り継いで向かう先は、"彼女"との待ち合わせ場所だ。そこは、初めて"彼女"と顔を合わせた場所でもある。

 

 

その場所には、約束した時間よりも随分と早く着いた。1時間は早かっただろうか。校門へ続く緩やかな坂道を上っていくと、建て替えられた校舎が目に飛び込んできた。自分が3年間を過ごした校舎は、もうどこにもない。新しい校舎が新しい時間を刻んでいる。思い出を追いかけながら辺りを見回していると、"彼女"がゆっくりと坂道を上って来た。

 

 

「香織先輩…」

「清掃氏くん…」

「15年ぶりだね…」

「そうだね…」

「何から話せばいいんだろ…」

「分からないよね…。ちょっと歩こうか、あの公園へ行こうよ」

「うん…」

俺たちは学校の横にある公園へ向かって歩いた。こんなふうに並んで歩く日がまた来るなんて…。言葉を発して空気を揺らしてはいけない気がした。それは気まずさではなくて、同じ時間を思い出してくれていると感じたからだ。俺たちは…、確かに想い合っていた。その日々は…、ひときわ輝いていた。だけど、あの日…。

 

 

 

「あの頃…、よくこのベンチに座って話したよね」

「そうだね…。俺の話を楽しそうに聞いてくれるのは香織先輩だけだったよ」

「先輩なんて言わないでよ。学年は違ったけど、同じ歳なんだから」

「ごめん…。今も…、そして、あの時も…」

「……………」

「のぼせ上っていたのか、思い上がっていたのか、欲望に負けただけなのか、…分からないんだ。いや…、そんなはずないよね。そうやって目を背けちゃダメだよね。たぶん…、全部だと思うんだ。俺はもっと香織に近付きたくて…、もっと香織を知りたくて…」

「……………」

「…そんなの言い訳にもならないよね。そんなことをしなくても、もっと近付けたし、もっと分かり合えたよね。俺は自分の事しか考えてなかったんだ。香織の気持ちを少しでも思いやれたら、こんな未来にはならなかったよね…」

「…こんな未来なんて言ってほしくないな。だって…、また会えたよね」

「……………」

「私はね…、いつかきっと元の二人に戻れるって思ってたの。でも…、なんて返事をすればいいのか分からなくて…、そんなうちに時間だけが過ぎていって…。もう謝らなくていいよ、その一言だけで良かったんだよね。何も言えなくて…、そのせいで清掃氏くんをずっと苦しめてしまって…、本当にごめんね…」

「いや…、香織が謝ることなんて何もないよ。悪いのは全部俺なんだ。たくさん送った手紙も、ただ謝罪の言葉を並べるだけで、ただ過ぎた時間を悔いるだけで、少しも未来を見ていなかったよね。それじゃあ、"明日"なんて来るわけなかったんだ…」

「でも…、来たよね。"明日"が来るまで15年もかかっちゃったね…。清掃氏くん、ずるいよ。いつもそうやって全部自分のせいにして、何でも一人で抱え込んで、全然変わらないね」

「……………」

「…優しいままの清掃氏くんで良かった。でも、心配だな…。札幌で一人で暮らしているんでしょ? 一人が好きな寂しがり屋の清掃氏くんを、支えてくれる人はいるの?」

「いるよ…。職場の仲間たちと…」

 

 

「職場の仲間たちと…?」

「今日、15年ぶりの"明日"を迎えさせてくれた人」

「えっ…」

「ずっと思っていたんだ。あの時、俺を救ってくれた香織のように、俺も誰かを救える人間になりたいって…。その思いが…、心の支えになっているんだ」

「ありがとう…。きっと清掃氏くんはたくさんの人を救ってきたと思うよ。だって…、私も今日救われたから…」

「香織…」

「誰かの力になるっていうのはね、特別なことをすることじゃないと思うの。笑顔を作ってあげられたら、ありがとうって笑ってくれたら、それは力になれたってことだよね」

「さすが俺の師匠だわ…、やっぱり敵わないや。これからも目標にさせてもらうよ」

「私も…、頑張る…。清掃氏くん、今日はこれからご両親の所へ行くの?」

「いや、実家に帰るのは明日だよ。今日は、みなとみらいのホテルに泊まるんだ」

「じゃあ、ご飯でも食べに行く? 明日、誕生日だよね?」

「誕生日…、覚えていてくれたんだ。行きたいんだけど、ここへ来る途中に電話がかかってきて…」

「そっか…、じゃあまた今度だね」

「うん…」

「今日は本当にありがとう。清掃氏くんと会えて良かったよ…」

「俺も…、香織と会えて良かった。じゃあ…、また…」

 

 

やっと"明日"が来た。ずっと灰色だった景色が、15年の時を経て少しずつ色づき始めた。決して美しい思い出ではないかもしれない。だが、その出会いこそが俺に"明日"をくれた。次は…、俺が"明日"を贈らなければならない。

 

 

 何もしなくても、ただ漠然と時を過ごしても、明日は来る。だが、それを当たり前の事だとは思いたくない。生きたかった明日を迎えられない人もたくさんいる。だから、俺は意志を持って明日を迎えたい。そんな明日は、きっと特別な一日になる。