和気清麻呂公 足立山の由来 | 北九州再発見・ミャンマー学校支援のブログ

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北九州市門司めかり公園「世界平和パゴダ」のミャンマー(旧ビルマ)僧侶との出会いによって、「ミャンマー学校建設」「平和祈念像」「北九州再発見」活動

 北九州市が誇る美しい「足立山」の由来
和気清麻呂公は、戦時中まで菅原道真と共に紙幣や教科書に記載されていましたが、GHQの弾圧で使用禁止。
北九州市民は、和気清磨公を御存じ無い方や宇佐神宮に参拝されても和気清麻呂公が御神託を受けた聖地を御存じ無い方も多いと思い今回企画。
皆様と再発見
足立山妙見宮

 昭和4年(1929年)に和気清麻呂公銅像が建立されましたが、昭和19年(1944年)金属供出。 昭和28年(1953年)に、現在の石像に再建。
水神社

 和気清麻呂公は、皇位を狙う弓削道鏡の怒りにふれ、足の筋を負傷、宇佐神宮八幡大神の御告げにより、北和山(足立山)の温泉で浴し、数日で両足もとの如く立った。
 それ以後北和山を足立山、その温泉は涸れることなく続いているため湯川(湯乾のなまりたる)といい、少し東側の小川を御告げ川という。
 温泉の湧き出る池を賞讃して一生池(現在は神和幼稚園駐車場)、そのほとりに水の大元の神、水波能女神(みずはのめのかみ)を奉り祠り水神社とする。
 水神社には嘉永6年(1853年)和気清麻呂公が正一位護王大神の御神号を賜りし時、京都から福江大宮司が清麻呂公自筆の「我独慙天地(われひとりてんちにはず)」の書が大事に保存。
葛原神社

元は和気清麻呂公の療養地、安部山公園。
 大正11年(1922年)安部山公園を開いた安部熊之輔が建立したが、平成3年(1991年)の地震により頭部が落下し、残りの胴体も風化が進み危険な為、撤去して土台横に埋蔵。
 現在の立像は、公園のシンボルである像の再建を望む声により、北九州市が平成5年(1993年)1月に再建。
 弘仁8年(817年)清麻呂公の嗣子真綱が勅使(ちょくし)として宇佐宮へ参向の帰途、蜂ヶ坂に立ち寄り、御神誨(ごかいしん=神の教え)を仰ぎ、八幡社を現在の地に遷し奉り、神功皇后、父清麻呂公の神霊を左右の相殿に合祀(ごうし)。

嘉永6年(1853年)、神祇官(じんぎかん=朝廷の祭祀を司る官庁名)より神格としては最高位の正一位の号を、和気護王大明神として京都の御王神社と、当社のみ下された際、神社における公文書「宗源神宣(そうげんしんせん)」と御幣(ごへい)を授(さず)かり、由来を語る唯一無二の御神宝として、大切に保管されています。
宇佐神宮「大尾(おおお)神社」

 御祭神八幡大神 御創建 天平神護元(765年)八幡大社は、奈良の都の大仏開眼式に臨(のぞ)まれ、宇佐へ御帰還の後、天平神護元(765年)、この大尾山にしばしの間鎮座するとの御神宣(ごしんせん)を下した。これを受けて山上に本殿が造営され、15年間お鎮まりになった。この間、神護景雲3年(769年)7月11日、和気清麻呂公は「宇佐使」として統治に参向、八幡大神より皇統(こうとう=天皇の血筋)を守護する神宣を受けられた。
大神が本宮へ遷御(せんぎょ)されたのち、神勅拝受の聖蹟として八幡神社の御分霊を祀り、大尾神社と称す。和気清麻呂公が御神託を受けた旧蹟と言われる。
和気清麻呂公船繋ぎの石=宇佐神宮より車で5分位、「和気」バス停前に柁鼻神社(かじはなじんじゃ)
梶鼻神社=古来、海岸側であったと言われます。

八幡総本社である宇佐神宮一帯は、神武天皇東遷の聖蹟とされ、椎根津彦命(しいめつひこみこと)に先導された神武天皇一行はこの柁鼻の地に上陸されたと言われ、神武天皇や和気清麻呂公が上陸する際、船を繋いだとされる「船繋ぎ石」も側に祀られ、柁鼻神社は神武天皇、和気清麻呂を祀っています。

 この周辺のは「和気」の地名、また和気姓が多い言われます。