(肩身が)狭いながらも楽しい我が家 | 劇団 貴社の記者は汽車で帰社
源頼朝役の東です。

本公演にご来場下さった皆様、ご助力いただいた皆様、この度は誠にありがとうございました。
前回公演では望外に可愛い娘を持てましたと書きましたが、今回は可愛い嫁と(多分)忠実な部下を持つ事ができました。「多分」とつけたのは泰衡に内通している気配がするからです。平泉許すまじ。

ともあれ、賑やかな義経パーティーに比べて少数勢力の鎌倉方(ほんとはいっぱい家臣がいるはずなのに・・・)ですが、終盤まで全く稽古に参加できず非常に申し訳ない気持ちでいっぱいでありました。温かく迎えてくれた嫁と部下には本当に感謝です。おかげさまで毎回楽しく稽古に顔を出すことができました。

今回は弟とはほとんど顔を合わせない役どころでした。某作品の劇場版新作を観たからというわけではないですが、意思疎通って本当に大事だと思わずにはいられません。初めて対面した時には心が通じ合っていた(少なくとも自分としては)と思うので、余計にやるせないし、義経としても「何を考えてるのか分からない」存在になってしまったのではないでしょうか。
こちらとしては立場的に家来の面前で心情を交えた説明なんてできないし、おいそれと温情を見せることもできないんだよ、察しろよ!という気持ちでいっぱいでした。色々とままなりませんね。

知りたい情報がリアルタイムで簡単に得られる現代と比べて、伝わるまでのタイムラグもあれば信憑性の疑わしさもあるという時代においては、情報伝達の齟齬なんていくらでもあったのでしょう。
だからこそ、情報の、というか意思の伝え方にはものすごく気を使っていたのではないかと思います。「あ、このツイートやばかったかな、消しちゃえ」とか出来ないわけですし。
腰越状も「自分はこれだけ頑張ってきました、二心はありません、許して下さい」という内容をものすごく大仰に書いてますよね。本当に義経が書いたものか、義経が考えたものかとか実に疑わしいものだったりはしますが、「どうやったら兄上は許してくれるのかな・・・!」と一生懸命あれこれ考えたり人に聞いたりして、普段全く使わない表現を用いながら手紙をしたためている義経の姿を想像するとちょっと愉快だったりしますよね。「あ、何かあいつ頑張ってるぞ」と頼朝も思うに違いないのです。

ところで公演が終わって一週間以上が経ちましたが、何だかまだ終わった感じがしないのが正直な気持ちです。
というより、客演さんも含めた「義経記」メンバーでの活動を終えたくないという気持ちでしょうか。
今まではわりとすぐに次の公演に気持ちが切り替わっていたので、何でだろうなぁ、後半は稽古にちょくちょく参加出来るようになったせいなのかなぁと思っていましたが、脚本家のツイートやら諸々の声を聞く限り、どうも自分だけではないようで。
今回の公演は、皆が声を揃えて稽古場の雰囲気が良かったと言っていました。特に男性陣が元気で賑やかという、いつものキシャでは生まれえなかった空気感が醸し出されていました。新しい風を送りこんでくれた客演の皆様には感謝してもしきれない位です。本当に変化を楽しめた稽古と公演でありました。

三郎も書いていましたが、人に限らず世の中の全てのものは好むと好まざるとに関わらず時と共に変わっていくものです。諸行無常というやつですね。
流れていく人生の中で、様々なものが目の前を通り過ぎていく中で、流れに任せて漂うもよし、抗うもよし。気になるものがあれば手を伸ばすのもいいと思います。
思い通りのものが掴めるとは限らないし、掴んだものが思っていたものと違うということもあったりして、中々ままならないのが人生ですが、行動に移るか・移らないかという自分の意思は思い通りにできるものです。
出来る事なら漫然とではなく明確な意思を持ってひとつひとつの選択をしていきたいし、掴んだものから得られるものは全て得られるよう、感度を上げていきたいですね。うん、抽象論ですね。

まぁそれはそれとして、様々な客演さんが加わることによって雰囲気がガラッと変わるのは刺激を受けますし、とても貴重な経験をさせてもらっていると感じています。今回は本当に手放したくないものだったり人だったりばかりの公演でしたので尚更そう思います。
けれどキシャとして公演を打っている以上は、「キシャとしての面白さ」は客演さんの有無によらず、変わらず保っていけるよう(生み出していけるよう)にしなければいけないことだと思います。
次回は「義経記」に比べると少人数ということで稽古場も寂しくなってしまいそうですが、公演自体は人数如何に関わらず面白いものをお見せできるようにしたいと思っています。頑張ります。