如月隼人のブログ
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東アジア今日は何の日:7月20日~ブルース・リーが死去(1973)

1973年7月20日、ブルース・リー(李小龍)が香港の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮)の自宅で死亡した。32歳だった。
 
ブルース・リーは1940年11月27日、サンフランシスコで生まれた。父親は広東省出身。粤劇(広東の伝統歌芝居)の有名な俳優で、一家を伴って米国で長期巡業をしていた。李小龍は米国で、子役として映画出演をしている。
 
一家は1941年に香港に戻った。比較的裕福な家だったという。ブルース・リーは幼少時に体が弱く、心配した父親が7歳から太極拳を学ばせた。また、子役・少年役としての映画出演も重ねた。中学4年(高校1年生に相当)の時にはけんかが原因で放校処分になった。当時は、若者グループ同士のけんかが多かった。
 
しばらくして復学を許されたが、グループ同士のけんかで「挫折」を感じ、改めて武術を学び始めた。さまざまな流派を学んだという。1957年には香港学生武術コンクールの年少者の部で優勝した。
 
しかしブルース・リーには「俳優の不良息子」との悪名が立った。父親は香港から離す必要があると考え、渡米を命じた。わずかな金しか渡されなかったので、ブルース・リーはアルバイトをしながらワシントン大学哲学部に進んだ。勉学に励むと同時に、中国武術の指導を行い、高校での哲学講師の仕事もした。
 
大学在学時にスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚。大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(ジークンドー)を創始した。
 
1966年に、米国内で開催された空手選手権大会で演武を披露したところ、フィルムがテレビプロデューサーの目に留まり、ドラマ「グリーン・ホーネット」の準主役に抜擢された。目の周辺を隠すマスクをつけた、日系米国人の「カトー」の役だった。
 
芸能界入りをきっかけに、ハリウッドの俳優やプロデューサーに武術の個人指導の仕事をするようにもなった。一方で、自らが主演するテレビドラマ「燃えよ! カンフー」を企画して売り込んだが、実現しなかった。
 
1970年に、香港で設立された映画会社のゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業)と契約。主演をつとめ1971年に公開された「ドラゴン危機一発」は香港映画界の歴史的ヒット作品になった。ブルース・リーは、香港のトップスターとして認められた。
 
2作目のの「ドラゴン怒りの鉄拳」(1972年)、3作目の「ドラゴンへの道」(同)も香港で大ヒットした。同年秋には「死亡遊戯」の撮影が開始。しかしハリウッドのワーナー・ブラザースと、自ら設立したコンコルド・プロダクションの合作による「燃えよドラゴン」の企画が持ち上がり、「死亡遊戯」の撮影はクライマックスのアクションシーン部分が終了したところで中断した。
 
「燃えよドラゴン」の撮影が終了し、「死亡遊戯」の撮影が再開されることになった。ブルース・リーは1973年7月20日、共演を予定されたベティ・ティン・ペイ(愛人だったともされる)の部屋で、鎮痛剤を飲んでベッドに横になって、そのまま意識を失った。ブルース・リーはクィーン・エリザベ病院に搬送されたが、死亡が確認された。
 
ブルース・リーは同年5月10日にも、アクションシーンのアフレコ中に突然嘔吐して呼吸困難になり、意識も混濁するなどしていた。2時間ほどして意識が戻った後も、1週間入院して容体を観察することになった。医師はブルース・リーの健康状態を正常と診断したが、機器を用いた検査はしていなかったという。
 
「燃えよドラゴン」は米国を皮切りに世界各地で公開されてヒットした。ブルース・リーの名も世界的に知られるようになったが、本人はすでに他界していた。その後、それ以前の作品の「ドラゴン危機一発」などが次々に、世界各地で公開されることになった。遺作となった「死亡遊戯」は、ユン・ワーやユン・ピョウが未撮影の部分の代役を務めて完成された。
 
なお、ブルース・リーが香港で活躍した当時、香港の映画作品は地元の広東語でなく北京語で製作されることが多かった。そのため、中国語版でもセリフ部分はブルース・リー本人の声でない。ただし、怪鳥音(アクション時の「アチョー」という声)は多くの場合、ブルース・リー本人の声を使った。
 
【1973年のその他の出来事】
・アース製薬が「ごきぶりホイホイ」発売(2月)
・桜田淳子「天使も夢みる」で歌手デビュー(2月)
・山口百恵が「としごろ」で歌手デビュー(5月)
・金大中がKCIA により東京都内のホテルで拉致される(8月)
・江崎玲於奈のノーベル物理学賞受賞が決定(10月)
・イトーヨーカ堂がセブン-イレブンを設立(11月)
・熊本市・大洋デパート火災。日本の百貨店火災として最悪の死者104人、負傷者124人(11月)


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東アジア今日は何の日:7月19日~反共・反日の韓国・李承晩元大統領が死去(1965)

韓国の李承晩元大統領が1965年7月19日、亡命先の米ハワイで死去した。90歳だった。強固な反共・反日主義者だった。現在の韓国で李大統領の業績を評価する人は少数だが、「竹島領有」については当然のことと受け止められている。
 
1875年3月26日、現在の北朝鮮南部・開城(ケソン)市近郊で生まれた。1897年に国王退位要求運動に加わり投獄される。特赦による出獄後は米国に渡り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学、プリンストン大学で学んだ(政治学博士号取得)。
 
いったん帰国するが、1911年にはアメリカに亡命。19年に上海で大韓民国臨時政府が樹立されると、ワシントンD.C.に同臨時政府欧米委員会を設立。20年には同政府大統領に推されるが、派閥抗争に敗れ失脚。日本が第二次世界大戦に敗北すると帰国した(1945年)。
 
李承晩は米国軍政下の韓国で、権力基盤を固めていった。強固な反共主義者であったことも、米国の意にかなったとされる。当時の韓国では1948年5月に国連監視下での初の総選挙が実施されるなど、国家体制の確立が急がれていた。一方で、北朝鮮と提携した南朝鮮労働党が韓国社会や韓国軍に工作員を潜入させ反乱・騒擾事件を起こした(済州島四・三事件、麗水・順天事件)など。
 
李承晩は反乱を鎮圧するだけでなく、左翼勢力や関係が疑われる者を徹底的に弾圧した。済州島では島民の5人に1人に相当する6万人が殺された。麗水・順天事件でも非武装の民間人約8000人が殺された。そのため、多くの住人が日本へ密航・逃亡することになった。
 
1948年8月15日に大韓民国の成立が宣言され、李承晩が大統領に就任した。李大統領は批判の声が高まると、「北進統一(北朝鮮に武力侵攻しての統一)」を強調するようになった。
 
当時の米ソは厳しく対立していたが、直接の軍事衝突は第三次世界大戦につながるとして両国ともに回避しようとしていた。米国は「李大統領の独断による北進開始」という「暴発」を懸念して、韓国軍には軽装備しか与えなかった。
 
このことが北朝鮮による韓国奇襲で始まる朝鮮戦争と、戦争初期の韓国軍潰走の大きな原因になった。また、李承晩大統領がかねてから「北進統一」を唱えていたため、北側にとっては「戦争勃発は韓国側の攻撃による」との説明もしやすくなった。
 
北朝鮮軍の侵攻により、李承晩大統領は各地を転々と逃げ、朝鮮半島最南部の釜山に到達した。米軍を主体とする国連軍の反攻により形勢が逆転すると、米軍の了解を得ずに自国軍に強引な作戦を命じるなどで、米国側からも批判が出た。
 
朝鮮戦争中には、北側が韓国近海に敷設した機雷の排除(掃海)に、韓国軍を含む国連軍だけでは対応しきれず、日本から海上保安官や民間人が派遣された。李承晩大統領は徹底的な反日主義者であったため、「日本がわれわれを助けるとの理由で出兵するなら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と表明。韓国の海運正常化には絶対に必要だった掃海を目的にしていても、日本側人員の韓国上陸は「再侵略とみなす」と論じた。
 
日本側も掃海隊員に上陸しないよう命じていたが、やむをえない事情で上陸したした際に、韓国兵から日本語で「ごくろうさんです。どうです一杯」などと歓迎されたとの記録がある。日本による統治時代を実際に経験した韓国人の間では、「日本を恨む気持ち」が必ずしも強烈ではなかった状況がうかがえるエピソードだ。
 
李承晩大統領は日韓併合時代を米国で過ごしており、対日観が概念だけでこりかたまってしまったとの指摘もある。
 
1953年7月27日に成立した朝鮮戦争の休戦協定に、韓国側は署名しなかった。李承晩大統領が「北進統一」に固辞したためだった。
 
李承晩大統領の主要な対日政策として、朝鮮戦争中の1952年1月に宣言した「李承晩ライン」の設定がある。李承晩ラインの「下敷き」になったのは、敗戦後の日本を統治した連合国最高司令官総司令部(GHQ)が、当時の不安定なアジア諸国の状況と暫定統治の都合上として、日本漁船の操業区域を制限したマッカーサーラインだった。
 
マッカーサーラインは1951年9月のサンフランシスコ講和条約にともなう日本国の主権回復で廃止されるはずだった。李承晩大統領はマッカーサーラインに代わるものとして、「李承晩ライン」を設定した。国際条約や慣習を無視した強引さだった。
 
韓国側は李承晩ラインを越境したとして日本漁船を銃撃したり拿捕することを繰り返した。分かっているだけでも日本人44人が死傷し、拿捕された漁船は328隻、拘束された乗組員は3929人に達した。
 
李大統領は李承晩ラインの設定とともに竹島(韓国名はドクト)を占領した。現在の韓国で、李大統領の業績を評価する人は少数だが、竹島「領有」だけは当然のこととして受け止められている。
 
独立後の韓国経済は低迷した。朝鮮戦争終了後に李承晩大統領は改めて米国に経済支援を要求。米国の支援を受け製粉・製糖・紡績(三白産業)は伸びたが、恩恵を受けたのは政府とのつながりがある財閥系企業で、国民の多くは貧困状態のままだった。都市部住民の救済策として米価が低価格に抑えられたことで、今度は多くの農民が困窮した。
 
李承晩大統領は不正な選挙介入を繰り返した。韓国の憲法は当初、大統領の三選を禁止していた。李大東有亮は憲法の「大統領三選禁止規定」を撤廃するために1954年に国会で、憲法改正の採決を行わせた。
 
当時の国会議員数は203人で、3分の2に相当する136人以上の賛成が必要だった。しかし賛成票は135票にとどまった。
 
すると、李承晩大統領側は「憲法改正は国会議員数の3分の2の賛成票、つまり135.33票以上で成立する。135.33票以上とは社会通念上の四捨五入を用いれば135票以上ということだ。つまり、賛成票が135だったことは、改憲に必要な3分の2以上の賛成票を得られたことを意味する」と主張して、改憲案の可決を宣言した(四捨五入改憲)。
 
李大統領はその後も強権政治を続けた。1960年に四選目を狙った大統領選挙でも、不正選挙を批判するデモが発生すると、当局側は「共産主義者の扇動」と主張して、デモ隊に発砲した(8人死亡、50人以上が負傷)。
 
同デモ隊を見物に行った高校生が、頭部に催涙弾を撃ち込まれた状態の遺体として発見されると、学生などによるさらに大規模なデモが発生。警察隊との衝突で、全国で189人が死亡した(4.19学生革命)。
 
4月20日には、マカナギー駐韓米国大使が韓国政府を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と通告。
 
李承晩大統領にとって、米国の支持を得ていることが「最大の武器」だった。米国から“最後通牒”を突き付けられたことで、反李承晩運動はさらに盛り上がった。
 
4月26日には国会が大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択すると、李承晩大統領は28日午前に、ラジオを通じて「国民が望むなら大統領職を辞任する」と表明。5月29日には金浦空港から米ハワイに向けて亡命した。(編集担当:如月隼人)
 
【1965年のその他の出来事】
・日本航空が「ジャルパック」発売(1月)
・大塚製薬が「オロナミンCドリンク」発売(2月)
・米軍が北ベトナム爆撃(北爆)開始。(2月)
・初の国産旅客機YS-11就航(4月)
・日韓基本条約を提携(6月)
・ シンガポールがマレーシアから独立(8月)
・日本初のカラーTVアニメ「ジャングル大帝」放送開始(10月)
・深夜テレビ番組「11PM」放送開始(11月)
・中国で文化大革命始まる(11月)
(編集担当:如月隼人)


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