願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃
己の最期を花の下で、と望んだ西行の和歌。
如月(きさらぎ)の望月、つまり旧暦二月十五日(現代の暦では3月頃)は
釈迦の入滅日(命日)とされる。
その望み通りに西行は1190年二月十六日、
河内の弘川寺(大阪府河南町)で桜を見ながら
静かに息を引きとった。享年73。
それは偶然ではなく、西行は飲食を絶ち、
自らの死期を釈尊に殉ずるべく定めたのだ、という説もある。
考えてみれば、釈尊と西行の生涯はよく似ている。
釈迦族の王の息子として生まれた悉達多(シッダールタ)は
何不自由なく幸福であったが、幼少期より感受性が強く、
深く思索する性質であったという。
例えば、ある農耕祭の日、農夫が畑を耕しているのを見た。
地中から掘りおこされた虫が、飛んで来た鳥に喰われた。
悉達多はこれを見て強い衝撃を受け、
『生き物はなぜ互いに殺し合わねばならないのか』と苦悩したという。
16歳で隣国の王女ヤショーダラ姫を妻に迎えラフーラが生まれる。
幸福そのもののように見える結婚生活も
悉達多の深い悩みを解決するものではなかった。
悉達多の出家の動機は『四門出遊』という有名なエピソードで伝えられている。
ある時悉達多は家臣を連れて東の門より城外へ出かけた。
悉達多の行く手に年老いた弱々しい老人の姿があった。
『あれは何物だ』 『老人でございます』
『誰でもあのようになるのか』『はい、人は誰しも、やがて年老いて衰えるものなのです』
次の日悉達多は南の門より外出して病人を見、
また次の日には西の門より外出して死人を運ぶ行列に出会う。
4日目、北の門から外出した悉達多は、出家して修行する沙門を見た。
悉達多は妻ヤショーダラー、息子ラーフラを置いて出家の道に入られた。御齢29歳。
つづく