久方ぶりにYoutubeでマッドフラッド動画 200年以前の歴史は全て捏造etc

などなどを見てみたら 映画や小説などでよく使われているこの注意書きが浮かんできた

実在の人物・団体・地名を使用する時 フィクションだと改めて明記しなければならない配慮

 

 

なぜ配慮しなければならなくなったのか?

現実に起きた出来事のように なぜ語ってはいけないのか?

現実とフィクションを分けなければならない理由 「客観的事実」が最重要になったのは何時からか?

日本の江戸時代では 男女混浴は当たり前で必要も犯罪もなかった

昭和時代の教育では殴る蹴るの体罰や暴言は必要不可欠とされてきたが 今では軽蔑すべき犯罪行為になった

現代におけるLGBTqなポリコレのように 今までは精神的な性差などなどに特別に配慮する必要もなかった

上記のように時代が進むにつれて 今まで未分別だったものが分けられ元に戻すことは退化だとされてきた

この流れを逆にたどっていけば 現実と虚構が分けられていなかった時代があったはず

現実の名前を使いながら 「事実」とは異なる物語を事実だと訴えかけるように語る

そもそも「事実」とはたった一つではなく 生きている人の数だけ・一人で複数にもあった

それで生活は滞ることなく回っていた むしろ日々の潤いにもなっていた

困るのは狩猟時や統一したがっている「高貴」な人々だけ 現実と虚構に明確な線引きなんて必要なかった

もしならば分けられる以前の人々は 実在の名前を当然のように物語に使い「史実」だとも訴えてきたはず

今では証拠も残っていなければ話の筋道すら怪しくなっているけど 語り訴えかける思い込みは本物だった そこだけは本物でなければ皆に聞いてもらうことはできなかったから

 

現代の学校の教科書にのっている「歴史」が事実だとは考え難い でもソレを語った・記述した・伝承してきた人々は確かにいた

200年前に破滅的大災害により人類は一度滅亡したのかもしれない でも完全に断絶されたわけでもなかった・証拠や肉体も失ってもバトンを渡すことができた

なら人類史は200年以前にもあった けれども虚実が入り混じり未分化状態の世界だった

そこでは人種や生物種の区別すらなかった そして時間すら刻まれてはいなかったのかもしれない

現実と虚構を分けずにいたことが 半永久的な人生をもたらしたのかもしれない

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