「昔のよしみで今も変わらぬあなた様のご厚意、

誠にありがとうございます。もしよろしければ

直々にお会いして御礼申し上げたく存じます」

 

薫の君は胸躍らせて何度も何度も繰り返し

中の君からのお手紙を読まれて、

 

「お手紙拝見いたしました。昔のよしみなどと

水臭いことはおっしゃらずに。詳しいことは

万事参上いたしました上で。あなかしこ」

 

と生真面目にお返事なさいました。

さて次の日の夕方、いつもよりは念入りに身づくろい

をされて薫の君は中の君を訪れになりました。

 

中の君はすぐに御簾の中へお招きになります。

「これはこれは」

その喜びを顔には出さず薫の君は静かに中には入られます。

中の君は一番奥に控えておられます。

 

「先日は父宮の法要でずいぶんお世話になりました。

心から感謝いたしております」

深々と礼をなさいますが声が小さく聞こえません。

 

「は?よく聞こえませぬが、もっと前へお出ましを」

薫の君は胸の高まりを抑えきれません。

 

「何とかして宇治に帰れぬものでしょうか?」

か細い声で中の君は何度もお頼みになります。

 

「そればかりは私の一存では出来かねます。

匂宮に相談されて許可が出れば段取りは

すべて私がしきらせてはいただきますが」

 

「ただごく内内に人目につかぬよう。なにも

匂宮のお許しなど大げさなことは・・・」

 

同じ言葉を薫の君は中の君の耳元でゆっくりと

やさしくささやきながら半身はするりと

中の君寄り添い横になられてしまいました。

 

その頃帝は女二宮を薫の君にとお思いでした。そうなると、

夕霧の右大臣も六の君を匂宮へ早く嫁がせようとせかされます。

 

六の君が正室となるともう中の君べったりとはいきません。

薫の君も宮様をお貰いになると、ご後見としてこちらを見捨てる

ことはないにしても、そちらが中心になるでしょう。

 

それ見たことかと、姉君が最も恐れていたことが起きそうな

不安に陥る中の君でした。それを薄々感じている薫の君は、

 

かえすがえすも大君の言うことを聞いて中の君と結婚して

おけばよかったのにと今更ながら後悔します。

 

そして実際夕霧右大臣の六の君がお輿入れになりました。

例によって匂宮はまんざらでもありません。

夕霧邸の監視は厳しくなかなか抜け出せません。

 

一人ぼっちの中の君は何とかして宇治にこっそり帰ってしまおうか

とお思いになって薫の君にお手紙を出されました。

 

2月にいよいよお引っ越しとなりました。

匂う宮は今か今かと待ちわびておいでです。

二条の院の立派な御殿にお車が到着いたしました。

 

匂宮はお車のところにご自身で歩み寄られて

中の君を抱きかかえおろして差し上げになりました。

 

これには世間の人々も驚かれ、匂う宮はこのお方に

よほどご熱心だということが知れ渡りました。

 

薫の君は一方ではそれを喜びながらも内心、

馬鹿なことをしたものだと複雑な気持ちでおられます。

 

 

このころ夕霧の右大臣(薫の兄)は匂宮が次期東宮候補なので

自分の六の君を差し上げるご予定です。

 

そこに早々と中の君をお連れされたので面白くありません。

なんとかせねばと企んでいます。

 

そうはいっても匂宮は中の君を溺愛されているようですが、

薫の君との仲ですから。気は許せません。

よそよそしい二人を見かけて匂宮は、

 

「なんと、御簾の外にお座りとは。薫の君は前々からちょっと

怪しいほどお世話をされておられる方ですよ。もっと親しく

御簾の中へ。どうぞどうぞ昔語りでもなさってください」

 

と言いながらも、

 

「そうはいってもあんまり気を許されるのもどうかな。

あちらに全く下心がないとも限りませんからね。ふふふふ」

 

と言われながら参内されて行きました。

今更よそよそしくはできません。

中の君は複雑な気持ちになられます。

 

天空の暗闇から源氏と柏木が現れます。

 

「なんちゅうやっちゃ薫は?いらいらする」

「まま、そこがまた奴のいいところで」

「結局女を死なせてしもうた。わるいやっちゃ

こういうやつが一番悪い」

 

柏木は黙って聞いています。

 

「それに引き換え孫のほうは調子もんの尻軽で

能天気や。自分も周りもそう認めておりゃあそれが

一番幸せかもな。なまじっか真面目ぶると自分も

みんなも傷つく。中途半端が一番いかん薫のように」

 

どうも地上では匂宮が中の君を京へ呼ぼうとしているようです。

中の君の後見はやはり薫の君ですから親ぶって構わずにはいられません。

 

「この春は  たれにか見せん  亡き人の

       かたみに摘める  峰の早蕨さわらび

 

誰もいなくなった宇治の山荘はやはり一日でも早く京へ移られる

べきだと思われます。

 

「いつもの浮気っぽいお気持ちだと姫君はつらいお気持ちになられます」

「それはないよ。こんなに恋い焦がれているというのに。頼むよ薫の君」

 

「ところがあちらの姫のほうでは全く本気になさっておられませんので

これは相当骨の折れることでございますですよ」

「まあそう言わずに。後生だから」

 

手を合わせて薫に頼み込む匂宮の姿を天空から源氏と柏木が見ています。

「何という情けない匂宮。わしの孫ともあろうものが」

「いやいや。宮様ともなると自由がききませんあなたの時のようには

いきませんからね。おんなたらしですね、うまいこと言って」

 

「薫も薫じゃ、得意げに恩を売ろうとしている。あさましい心根じゃ」

「根が優しいから万事誰も傷つけないようにそうしているのですよ」

「そうかな?」

 

欄干の二人はひそひそ話でかなり細かく打ち合わせをしておられます。

夏の終わりのある日薫の君はひそかに匂宮を宇治へご案内しました。

もし中宮のお耳にでも入ったらもう二度と宇治へは来られなくなります。

 

まずは薫の君が大君を引き留めます。

その隙に匂宮は薫の君が教えた通りいつもの戸口に近づいて扇を鳴らします。

 

すると戸口がすっと開いて手慣れた老婆が中の君のもとへ宮を案内します。

匂宮は思わずにやりと微笑みます。別の部屋で薫の君は大君と話しています。

 

「実は匂宮様が後を追ってこられて御断りもできず。こっそり中の君の

ところに忍び込まれたようです。老婆が抱き込まれて味方したのでしょう」

 

それを聞かれて大君は口惜しさにおよよと泣き崩れます。

 

「こうなってはどうしようもありません。私をつねるなりひねるなり

どうともなさってください。いまはもう私たちの仲は清いものだとは

だれも思っておりませんよ。どうかいいかげんにしてください!」

 

薫の君はいまにも襖を引き破りそうな剣幕です。

大君はじっと耐えて心を落ち着け、

 

「もうこれ以上私たち姉妹を困らせないでください!お手をお離しに

なってください。私はもう悔しさで胸がいっぱいでございます。どうか

お手を・・。どうしてもあなた様をお受入れすることはできません」

 

薫の君はついにお手を離され、

「・・・わたしはもう、この世に生きていく気持ちもなくなりました」

そうつぶやかれて打ちひしがれたまま、白々と夜も明けてまいりました。

 

その年の暮れ、とうとう大君は病の床に就かれ薫の君に看取られながら

静かにお亡くなりになられました。

 

八宮の一周忌になりました。薫の君は募る思いを姉の

大君おおいきみに伝えますが、大君は妹の中の君

を薫の君にすすめ自分はその後見になりたいと望みます。

 

天空で源氏と柏木が言い合っています。

「それ見たことか薫も男よ。初めから大君目当てじゃった。

俗聖も何もあったもんじゃない。むっつりスケベじゃ」

 

「何ということを。理性的にすべてが円満になるように心を込めて

対処しようとする結果の自然な成り行きでしょうが?」

 

「大君にてこずったのが失敗じゃな。力ずくでもよかったのにな。

柏木のように。な?かしわぎ?」

 

「なんということを?自らも周りもすべて納得させて事を運ぶ、

誰人たりとも傷つけてはならぬという慈悲の表れです!」

 

「慈悲が大君の我に負けたのじゃ。臆病な女のわがままに負けたのじゃ」

「姫の誇りを守るためです。でなければそこらの女どもと一緒です」

「どうせもてあそばれて捨てられる。面倒見てもらえるだけでも幸せと思え!」

 

「おんながわるい?」

「薫もわるい!人は変わる。変わるには勇気がいる。大君には勇気がなかった

んじゃ。死ぬ気になれば何でもできたはず、意気地なし!薫もじゃ!」

 

「薫は思いやりのあるやさしい子です」

「そうかな?今に見ていろ、自分の勇気のなさを変な策を用いて望みを達成

しようとする。賢者ぶった小賢しい本性があからさまになっていくぞ」

 

薫の君が廊下の欄干に寄り添って匂宮と話をしています。

今は住まいが近くでよくこうして話しに来ます。

 

「近いうちに置き去りにせず、連れて行っておくれよ。薫の君」

「ええ、それはもう。しかしそう簡単ではございませんよ」

「そんな。君だけが頼りなんだ。この身分じゃそう簡単には出かけられない

ことは君もよく知ってるだろう。うらやましい」

 

「わかりました何とかしましょう。人里離れた山里に」

「みめ麗しき姫二人。ふふふふふふ」

 

二人は意味ありげに笑います。

天空で源氏と柏木が渋い表情で顔を見合わせます。

 

「それみたことか」

「いえいえ・・・・ふーむ?」

 

二月の末に匂宮は大勢のお供を引き連れて初瀬の観音参りをされました。

その帰りに宇治の夕霧大臣の別荘にお泊りになります。

そこに薫の君がお迎えに上がりました。川向うが八宮のお屋敷です。

 

天空の源氏が言います。

「ふたりの下心見え見えじゃ」

 

夕暮れになって管弦のお遊びが始まりました。

八宮邸からお手紙が来ます。宮自ら返事を書かれます。

それを薫の君が取り次ぎます。

 

あまりに人が多すぎてなかなか姫たちまで行きません。

とうとう何事もなく宮たちは京へ引き上げられました。

 

天空で源氏と柏木が話しています。

 

「もっとうまくやれんものかのう」

「いやいや、深入りは禁物」

「匂宮と遊びのつもりじゃ。まだ子供じゃ二人とも」

「薫は私に似て慎重なのでございます」

「嘘をつけ、何が慎重じゃ。うぶな女三宮姫をかすみ取ったくせに」

 

「それはあんまりな。打ち捨てられていた姫の心を満たして差し上げたのですよ」

「ふん、ならば出家などするものか」

「そもそもあなたとの縁談が無理だったのです」

「そうかもしれんな。あの二人もそうならねばいいがな」

 

天空の声が地上に聞こえそうです。

その夏、八宮様は「これが最後の山籠もりになりそうです」と言われ、

「くれぐれも二人の姫のことはよろしくお願いします」と言い残されて

山にこもられました。そして間もなく亡くなられました。

 

残された姫のもとへ薫の君も匂宮も弔いのお手紙を差し上げられます。

薫の君は阿闍梨や宮の者たちへあれこれと御配慮をなさいます。

それはそれは八宮の御遺言をはるかに上回る御気遣いでございました。

 

その姿を見るにつけ老婆はひとり、

「柏木の衛門の督さま。ああ、薫様はお父上にそっくり似でございます」

と、ため息ばかりついて見守っておられます。

 

そこにたいそうな老婆が現れてきました。

結局、薫は部屋に入り4人で話し始めました。

恥ずかしがり屋の姫たちを手慣れた老婆が応じています。

 

「こちらの宮のような俗聖ぞくひじりを私も目指しておりますので、

色事には全く関係ありません。また寄せていただきます」

 

薫がそう言うと老婆は急に泣き始めます。故衛門のかみの乳母は

自分の母で大切なものを預かっていると言います。

 

天空の暗闇で柏木が叫びます。

「故衛門の督とは私のことだが?」

源氏もいぶかしげに二人は顔を見合わせ天空から覗きます。

 

「もし後をお聞きになりたいとお思いならぜひ次の機会に私を呼びください」

「わかりました。宮の山籠もりが明けましたらまた参りますのでその時に詳しく」

 

天空の二人は意味ありげにうなづいています。

 

    x   x   x

 

翌日薫の君は山籠もりの宮と僧のために絹、綿、袈裟、衣を山へ。

八の宮邸の者のために料理の重箱をお届けになります。

 

天空で源氏が呟きます。

「まめじゃなあ薫は。姫が目当てになったんじゃ」

「そんなことはありませんよ。俗聖の師八の宮のために」

「ふん、将を射んとすれば馬を射よと言うではないか」

二人は天空の暗闇で言い合っています。

 

宮中に帰ってきますと。

薫中将が匂宮兵部卿に楽しげに語りかけています。

「人里離れた奥深い所に」

「ほう、そんなところに、みめ麗しき姫がいたら楽しいだろうね」

「ひょっとしたら」

「あるかもしれない」

「ふふふふふ」

二人は意味ありげに笑っています。

仲の良い貴公子二人でした。

 

     x   x   x

 

それから数日後。薫の君は再び八の宮邸を訪れました。

八宮は大いに喜ばれ、出家のほだしとなっている

この二人の姫を薫の君に託します。

 

八宮が勤行をなさっている間にくだんの老婆から話を聞き

衛門の督の遺品を預かります。それはまがいもなく

かつての柏木から女三宮への手紙の束でした。

 

天空から柏木が落ちかかります。

「おおそれは。恐ろしや恐ろしや」

慌てて柏木は顔を両手で多い暗闇に隠れます。

「薫は驚愕でふるえているではないか。ああ、真剣なまなざしで、

女三尼宮のところへ行く気だな」

 

読経をしている尼宮の後ろに手紙を握りしめて薫の君様はたたずんで

おられます。尼宮は気配を感じ恥ずかしげに経本を閉じられ乙女の

ように微笑まれます。もちろん白檀扇でお顔は見えません。

 

薫の君は何も言わずにそのまま引き下がられました。

胸の内にすべてを秘めておこうと決意されたご様子でした。

 

老いたる源氏は暗闇の中で目を覚ましました。目が見えます。

光りさす小穴から下を覗くと、3人の男が話しをしています。

 

「ちっ、薫か。一念三千?南無法華経?確かに夕霧の前で臨終のときにそう言ったが。

そう悟りきれずに冥府をさまよっているのが現実なのに」

 

そこに同じく冥府をさまよっている柏木の声がかぶさってきます。

「私の血筋に似合わずなんと仏道心が篤いことよ」

「柏木か?今に見ておれ。薫が煩悩でのたうち回る姿を」

「そうはさせませんよ。私の子ですから」

 

その時天空がにわかに掻き曇り大粒の雨と同時にすさまじい稲光が。

「どどどーん!」

八の宮邸の間近に雷が落ちました。その瞬間、

二人の老人は念仏を、薫は南無法華経と唱えておりました。

 

      X  X  X

 

それから三年、秋のある夜。薫はいつものように八の宮邸を訪れました。

ところがその夜は八の宮の姿が見えません。美しい娘たちが琵琶ときん

を弾いています。思わず薫は耳を澄ませてたたずみます。

 

「なんと。ここは田舎と気にも留めてはいなかったが」

 

垣根から垣間見る限りは雅な姫二人で奏でていらっしゃいます。

見るからに御姉妹とわかります。姉君はおおらかそうでつつましく

妹君は素直でかわいらしく。一目で薫はこの姉姫のとりこになりました。

 

先ほどからずっと天空の暗闇から源氏と柏木が覗いています。

老いたる源氏は、

「それ見ろ、薫の化けの皮がはがれてきたぞ」

 

すかさず柏木は、

「いえいえ、薫は慎重ですからご安心を」

 

二人は天空の暗闇から今にも落ちこぼれそうに薫の成り行きを窺っています。

 

それから10年の月日が経ちました。薫の君は19歳に、

匂宮は20歳におなりです。

 

匂宮は兵部卿、薫の君は中将に。ともに次代を担う若手の

貴公子として華やかさを競っておいでです。

 

どういうわけか薫の君は自然と体内から芳香を放つ方で

誰言うともなく薫の君というようになりました。

 

それに対抗してやんちゃな匂宮はこれでもかというくらいに

種々の香を炊き込みどこにいても匂宮と言われました。

 

薫の宮は幼いころ自分はひょっとしたら源氏の子ではないかも

しれないことを耳にします。それからは世の無常や宿業などを

思いやられ仏教へと傾いていかれます。

 

このころ源氏の弟八の宮は宇治でひっそりと暮らしておられ、北の

方は早くに亡くなられて姫二人を男手ひとつで育てておられました。

 

八の宮は師の阿闍梨のもとで熱心に仏道に励んでおられました。

この阿闍梨が冷泉院にも時々お見えになるので徐々に薫の君は

親しくなり八の宮のもとも訪れるようになりました。

 

ある夏の日、初めて3人が合いまみえました。

「ささ、こちらへ、阿闍梨様。薫殿はこちらへ。わび住まいでは

ございますが、ごゆるりと」

 

作務衣姿の八の宮が阿闍梨を上座に通します。

阿闍梨は直綴を着ています。真ん中に八の宮。ともに高齢です。

若い薫の君は単衣の狩衣で下座に座っています。

 

蝉しぐれの中、宇治川のせせらぎと心地よい風が渡ってきます。

「して若君、源氏殿は最後になんと申されました?」

八の宮が訊ねます。

「はい、南無法華経、南無法華経じゃ、と申されたそうです」

 

「ほう、南無法華経とな?」

八の宮が驚いたように答えます。阿闍梨は大きくうなづきながら、

 

「南無とは梵語なり、ここには帰命という。天台は理の一念三千

極まるところ帰命妙法蓮華経と悟られた。しかし付属なきが故に

また時の未だ至らざるがゆえに、この悟りは流布せなんだ」

 

二人の弟子は神妙に阿闍梨の説法を聞いています。

薫の君はこのひと時にこそ時を超えた歓びを味わっておられます。