高野山という仏教都市に暮らしていると、現代仏教の悪しき部分も見えてしまいます。そして、現代仏教に足りないところも見えてしまいます。昭和50年代では、仏教僧侶がボランティアをするという発想はほとんどありませんでした。
大学3回生のとき、私は古本のリサイクルフェアというイベントのボランティアに参加しました。神戸市灘区にあった倉庫で、集められた古本を分別する作業から参加しました。
そして古本のリサイクルフェアは、今はない心斎橋そごうで行いました。ところが、古本は古本屋で買うという人の多い中、新品のおしゃれなものを買いに来る百貨店で古本を売るということに、そもそも無理があったのです。
確か3日間で売上100万円が目標でしたが、1日目を終えて到底達成できそうもありませんでした。それでも、分別仕分けから携わっていたボランティアのなかに連帯感が生まれていました。
2日目から私は声を張り上げて必死に売ろうとしていました。高校時代に芝居をしたときのスイッチが入ったような感じがしました。やがて、他のボランティアも声を出していました。
そして最終日、目標額の100万円を達成していました。このボランティアの成功体験が、私にとって大きな意味を持ちました。
私は大学を卒業して、この古本のリサイクルフェアを主宰した関西リサイクル運動市民の会に勤めていました。
主な仕事は『月刊リサイクルニュース』の編集でした。そのかたわら、イベントの企画やサポートをしました。
まだリサイクルという言葉が一般化していませんでしたから、
〜関西リサイクル運動市民の会です!〜
というと、
~あぁ、関西サイクルスポーツセンターね!~
と返されることが度々ありました。それでも取材のために大阪市役所やテレビ局や新聞社、生活協同組合、百貨店、産廃業者の人など、様々な職種の世界の人と知り合いました。
かわったところでは、大阪腎臓バンクにも行きました。死体腎移植のための、腎臓バンクの組織でした。臓器のリサイクルなんて、なんとも短絡的な発想でしたが、そこの事務局長の方が、やたら体躯の立派な人で、なんと近畿勤労者山岳連盟の会長さんでもあり驚きました。
そんな僧侶でいたら絶対に出会えそうも無い人と何人も出会いました。その中で、京都の常寂光寺の長尾憲彰さんに言われた言葉は、今でも頭に残っています。
出家した僧侶は、もう一度社会に出家しないとダメだ
と言われました。長尾憲彰さんは、京都大学の心理出身で児相の職員や大学教授を経て、京都のゴミ問題にも取り組み、私は市民運動の関係で先生とお目にかかりました。その時に、僧侶は社会に出家しないとダメだと言われました。
私はお寺という閉鎖的なコミュニティーに閉じこもるのではく、社会と繋がりを持って生身の人間と関わる僧侶というイメージができつつありました。