小僧物語(19)豊かな旅 | 愚僧日記3

愚僧日記3

知外坊真教

今から40分年前くらいの高野山の宿坊にとって、寺生は貴重な労働力だった。

私はその労働によって勉強できなくなるのを避けるために、寺を出て、高野山内のアパートに住んで大学に通った。

しかし、師僧との縁は切れるものではなく、週末や夏休みや冬休みは師僧の寺でバイトをした。

寺生の時は、夏休みの終わりに小遣い程度のお金をくれたが、寺を出たらバイト代をしっかりもらった。もらったバイト代で勉学に励んだかというと、そうはならなかった。

ヒマを見つけては、京都や奈良のユースホステルを泊まり歩いた。文字通りに京都や奈良まで電車で行って、あとはひたすら歩いた。

ただ京都は市電があったので、効率よく歩けた。今思うと、京都は市電を復活させた方がいいと思う。

京都の定宿は東山ユースホステルだった。ここは外国人も多かった。バイクや自転車で日本中を旅する若者達が集まっては、旅先の情報交換をした。

ユースホステルの利用者はカードに各ユースのスタンプを捺して貰う。スタンプが100以上捺してある強者がゴロゴロいた。海外のユースのスタンプが捺してある人もいた。

金のないユース利用者は、自ずと行くところが決まっていた。夏の暑い京都の場合、郵便局は絶好の休憩場所で、そこで同宿の人と会うことは珍しくなかった。

京都で知り合った外国人が高野山を訪ねてくることもあった。携帯電話のない時代だったから、住所を探し当て、外で叫んでくれる。変な外国人が、おまえを探していたぞ!と大家さんに言われて気がつくこともあった。

あの頃の旅は奔放で行き当たりばったりだった。だからこそ、何が起きるか分からないワクワク感があった。

旅先でお金が無くなると、その日の宿代をつかってパチンコで一獲千金を得て、さらに連泊したこともあった。

そんな勝負に負けて鴨川の橋の下に寝たこともあった。しかし警官に職務質問されて、川べりでいちゃついているアベック達に職務質問しないのか?って食ってかかったこともあった。たぶん不審者に見えたのだろう。そんなことも今となっては懐かしい。

今思うと、お金が無いゆえに、豊かな日々を送れていたと思う。あんなに京都や奈良に行きながら、残念ながら同業の僧侶と知り合うことは無かった。きっと私と同年代の僧侶は、鴨川の橋の下で寝てはいないし、京都駅から歩いて三千院まで行かないし、そもそもユースホステルを定宿にはしてなかったのだろう。