つながって支え合って祈るところ そこに新しい物語が生まれる | 愚僧日記3

愚僧日記3

知外坊真教

 令和四年十月 長仙寺の山門を取り壊しました。参拝者の安全を最優先して、取り壊すことにしました。山門はたった一日で壊されて、一週間ほどで山門は山門跡になりました。少し淋しくなりました。
 

山門跡になってわかったこと


  山門跡になって淋しさを味わうのとは反対に、私は新しい山門が建って複雑な気持ちになったことがあります。
 私は足かけ八年高野山にいました。高野山の中心部にある伽藍にあった中門は、天保14年(1843)の大火で消失しました。私の記憶にある中門は、中門跡でした。しかし、その中門が平成27年(2015)に172年ぶりに再建されました。新しい高野山の中門は立派なのですけれど、どうもしっくりこないのです。

 

 私の心の中の中門は、中門跡なのです。形がないのです。形がない代わりに、中門跡=伽藍なのです。広い伽藍に点在する御堂と、そこをお参りする営みには形のない礎石だけの中門跡があるのです。そこに立派な中門ができると、忽然と異物が混入したような変な感じがしました。その立派な目新しい中門には、営みや思いが感じられないのです。もちろん、これから何十年も経つうちに、新しい中門のある営みや思いが紡がれることでしょう。
 

 私は今回、自坊の山門を取り壊して山門跡になって分かりました。目に見えるものは、そこにあった営みの残像であり、思いや営みを蘇らせる目印であり、隠喩(メタファー)なのです。隠喩とは、たとえば「人生は旅の如し」といように、ある物事に隠された意味を、その物事で象徴的に表現することです。長仙寺の山門は、来られた人の人生の物語を象徴するシンボルになっていたと思います。そのシンボルがなくなっても、ひとりひとりの物語はなくなりません。大切なのは、そこにあった営みであり、営みの中で紡いだ記憶や思いの物語なのです。
 

山門が壊れてもなくならないもの
 

 この文章を書いているのは十一月ですが、境内には椎の実がたくさん落ちています。孫や曾孫の七五三についてきたお年寄りは、幼い頃に椎の実を拾って食べた記憶を蘇らせます。お墓だってお参りするたびに、亡き人を思い出させます。お香の薫りも、古人への思いや、故郷の仏壇にお参りした記憶を蘇らせます。そして、数十年後、子ども達は、お爺ちゃんお婆ちゃんと来た記憶を蘇らせます。


 お寺というのは、そういう思いを蘇らせる場なのです。津軽にある恐山の住職南直裁さんは、著書のなかで、恐山はパワースポットではない、パワーレススポットだと言いました。亡くなった人への思いを置いていくところという意味です。長仙寺で紡いだ思い出やつながりとその物語は、山門を壊してもなくならず、そこにくれば蘇ってくるのです。
 

五感の記憶が新しく生み出す未来
 

 立派な門やお堂には、そこにいろいろな人が置いていった思いや残像が、その場と人の心に宿っています。人の心に宿った残像は、その人と共に成長し意味も変化するのです。
 私は幼い頃、九州の親戚の寺によく行きました。今は建物もかなり変わりました。しかし、変わらないのは、お寺のニオイです。今も変わらないお香のニオイです。幼い頃は毎年のように行っていましたが、成長するにつれ間隔があき、何年かぶりで訪れることもありました。それでもあのニオイだけは変わりませんでした。そして、私が僧侶になる動機の底辺には、このニオイが漂っていました。
 

 五感で感じる匂いや味や触れた感じや音は、視覚的な現在の状況や言葉に影響を受けることなく蘇ります。そして蘇った五感の記憶が新しい体験を生みます。ある人はどこかに行きたいという衝動に駆られるかも知れません。またある人は、○○が食べたいという衝動かも知れません。私はお香の薫りがすると、この環境に身を委ねたいと思い、高野山に向かい僧侶になりました。見た目は変わっても五感の記憶は残り続けます。そして、その記憶が、新しい何かを生み出し、新しい物語が生まれるのです。
 

今こそ つながって支え合う

  毎年おたがさまに初詣の御祈祷に来られる方のなかに、手につけるお香の薫りを嗅がないと、年が明けた気がしないという方がおられます。三が日には、甘酒の御接待をします。初詣に親戚一同で来て、この甘酒を飲むのが何よりの楽しみという方がたくさんいます。昨年は、寝たきりになってしまったお婆さんに飲ませたいと、保温ボトルを持ってきた方もいたそうです。
 こうした話を聞くたびに、新しい物語が生まれるお手伝いが出来たことを嬉しく思います。そしてこうした物語が紡がれるのには、人と人とのつながりも必要です。
 

 椎の実を拾ったことや、お香の薫りのことを語り合う人と人との繋がりが必要なのです。山門が山門跡になっても、語り合う人との繋がりがあれば大丈夫です。仏像や建物がお寺を支えているのではありません。そこに来る人とのつながりがお寺を支えているのです。そしてその繋がりの中で語られる物語がお寺の宝です。私たち僧侶は、そのつながりを守るために活動しているとも言えます。
 

 つながって支え合って、ともに祈る。そしてまた新しい出逢いが生まれ、物語が生まれるのです。コロナ禍にめげずに頑張りましょう。