小僧物語(16)大阿闍梨 | 愚僧日記3

愚僧日記3

知外坊真教

私は四度加行の伝授を中川善教師に受けた。当時の高野山では、最も厳格に行法をする僧侶であり、行者に伝授できる大阿闍梨だった。終生肉食妻帯しなかった。そして聲明の南山進流の大家でもあった。

元々は法隆寺の僧侶だった。学び尋ねて高野山に至った。高野山中心部にある親王院の水原堯栄師に師事して、後に同院の住職になった。

親王院は、学生たちの間では、寺生の中でも過酷なことで有名だった。まず朝の勤行が長い。高野山の宿坊の朝のお勤めは、理趣経と諸真言がメイン。その理趣経は全部唱えると20分はかかる。宿坊の多くは、理趣経の一部を割愛して10分ほどにして、他の真言などを含めて30分くらいで終えるところが多かった。

ところが親王院の朝のお勤めの理趣経は、恐ろしくゆっくりで、しかも割愛することなく、フルで唱える。親王院にいたある先生は、『五月雨の軒より落つるしずくの如し』というスピードだ。

私も一度だけ、親王院に泊めさせて頂いたが、本堂のお勤めだけで、1時間は超えていた。この朝のお勤めを毎朝している寺生の苦労は計り知れない。

なかでも、善教師の付き人は過酷だ。あるとき、善教師が地方の寺院の法要に赴いたとき、宿に泊まって、絵葉書を買いに行かされた。そして1枚1枚を毛筆で、信者さん宛に手紙を書いたのだそうだ。~近くに来たけれど、急ぎの旅なので失礼してしまう~というような詫び状を、夜通しかかって数十枚書き上げて投函したという。

そんな善教師が、真冬の真別処円通律寺に伝授に来て頂くのは光栄だった。普段は厳しい人が、行者にはやさしかった。風邪を引かないように、霜焼けで大変だろうけどカラダを大事にしろと声を掛けてくれた。善教師のやさしさは、厳しさの中にあってこそ際立つやさしさと温かさだった。そんな善教師が、意味不明なことを言った。

~アフガンは真冬のなかで大変なめにあったが、、、、~

行者には全くなんのことか分からない。しかし、数日後に意味が分かった。ソ連がアフガニスタンに侵攻したことを言っていたことが、納品された食材を包んでいた新聞で判明した。

行者が知っているわけもないのに何であんな事を言ったのか?善教師は、時々面白いことを言ったりしたりする人だった。

後に私が勤めた密教文化研究所にきて、コピーして欲しいと女性職員に依頼した。その職員はコピー代20円を請求すると、袂から一万円札を出した。困った職員の顔を見て、~○○さん、20円貸してくれ!?~と手を合わせるのだ。また善教師は無類の饅頭好きだった。菜食主義者だったが、饅頭の食べ過ぎで糖尿病だった。だから、善教師が下駄の音をさせて研究所に来ると、饅頭を隠したものだった。

こんなこともあった。親王院の学生は丸刈りが常だった。ある日饅頭好きの善教師が、珍しく学生に饅頭を菓子箱ごとくれた。学生は喜んで菓子箱を開けると、そこにあった饅頭にはカビが生えていた。その饅頭を手に取ると、饅頭の下に剃刀の刃が1枚あった。髪の毛が伸びてきたから剃れよ!ということだったのだ。善教師はユーモアのセンスは格別だった。

でも、善教師はとにかく仏に対して真面目でいつも真剣だった。私が忘れられない善教師は、私の師僧が亡くなり、通夜に導師として来たときだった。もう80過ぎの善教師が、私の師僧の入る棺に真言や経文を汗だくになって書いてくれた。

真冬の高野山なのに、ホントに必死で書き上げてくれた。そして通夜式のとき、礼拝して登壇しようとしたとき、ホッカイロがポトンと落ちた。横の部家から手伝いをしていた私は、ささっと出てカイロを拾い上げ、善教師にそっと渡した。するとやさしい口調で~おおきにありがとさん~と、小声で言ってくれた。

善教師のやさしさは、あの真別処円通律寺の時と同じように、いつも厳しさの中でこそ際立つやさしさとあたたかさだった。