世間の目 | 夫は心を病むイクメン 鬱は人生のスパイス 美味しい人生になりました

夫は心を病むイクメン 鬱は人生のスパイス 美味しい人生になりました

結婚10年目のプレゼントは鬱病だった。
鬱の夫との日々をふりかえります。

うつになる前も

「世間体」というものをとても気にしていた。

 

どう思われるか?

これであっているか?

 

「気にすること」は当たり前で

「気にしない」という選択肢はなかった。

 

夫のうつが判明したときは

ばれたくない気持ちがあった。

 

 

 

なぜか、

 

わたしのプライド。

うまくいっていないことを知られたくない。

弱みを見せたくない。

 

それと、

相手の反応によって自分が傷つきそうだと思うから隠したくなる。

 

 

いずれにしろ、こういう気持ちがゼロになったときが、

全てを持って病を受け入れるということになるのかもしれないなあと思っています。

 

 

と当時を振り返っている。

 

つまり、

「人の目」が気になってしかたなかった。

 

夫がうつになるまで

異変に気づかなかった妻、

うつになるまで追い込んだ妻

夫が病気になった哀れな家族

 

そう思われないようにと

前向きになってみたり、

事実がバレないようにした。

人との関わりも絶った。

 

また、

「きっとこの経験はこれでよかった!という未来につながる」

と言い聞かせた。

 

この経験を乗り越え、

HAPPYな現実につなげたら

堂々とできるとも思っていた。

 

つまり、ここでも

どうみられるか?だけを意識していた。

 

不幸になりたくないのではなく、

それ以上に

不幸に見える人になりたくなかったのだ。

 

 

描いていた理想の家庭からも遠ざかった。

 

計画は全部崩れた。

 

社会のレールから外れてしまったと思うほどの

思いがあった。

 

「レールから外れないように」がんばってきたからこそ

レールから少しでも離れる感覚が

耐えられなかった。

 

 

既存の枠組みに

自分を(わたしたちを)あてはめることだけに

必死だったんだと思う。

 

 

世間からどうみられるか?で

自分たちの価値が決まると

本気で思っていた。

 

今なら

それは真実ではないことは

わかる。

 

だけど、

 

今だってそれに囚われているのだ。

 

だから

夫に「仕事やめなよ」と言えない。

 

やめたって、いますぐに野垂れ死ぬことはない。

今まで蓄えてきたものだって

多少はあるんだから、

しばらくは生きていける。

 

大丈夫。

 

そう頭ではわかっているのに

 

「次の仕事が決まってもいないのに

やめるなんて恥ずかしい」とか

 

思う気持ちがある。

 

その気持ちはどこからきているかといえば

完全に「世間」を意識しているから。

 

わたしのプライド。

うまくいっていないことを知られたくない。

弱みを見せたくない。

 

それと、

相手の反応によって自分が傷つきそうだと思うから隠したくなる。

いずれにしろ、

こういう気持ちがゼロになったときが、

全てを持って病を受け入れるということになるのかもしれないなあと思っています。

 

この部分は

きっと「病」だけでなく、

私自身、そして夫をまるごと受け入れ、

そのままをみとめるというところに

繋がっていくんだろうな。

 

道のりは

ながい。

 

ただ、

これに気づいたことが

 

進歩なのかな。