ハイティンク指揮ロンドン交響楽団京都公演の感想 ブルックナー7番他 2015年10月3日 |   kinuzabuの日々・・・

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ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団を聴きに、京都コンサートホールへ行ってきた。

曲目は、モーツァルトのpコン24番とブルックナー交響曲第7番。モーツァルトのソリストはマレイ・ペライア。超豪華な顔ぶれ。


会場は8割ぐらいの入り。京都コンサートホールの外来オケの公演としては多い方かもしれない。私の今回の席はステージの真横だったのだが、譜面台の上に置かれた楽譜には、『LSO 8』とか番号が打たれていて、こういう整理の仕方は初めてみたなと思った。


さて、一曲目のモーツァルト。最初からゆっくりなテンポ。オケもどちらかというと重い。

ペライアのピアノもきらめく音が響くけど、重い感じ。鈍重とは言わないまでも、軽やかさの感じられない遅く重い演奏。

現代のモーツァルト演奏の対極を行く感じがした。

オケは木管の美しさに唸る。木管が鳴るときは、弦の音量を落として木管の音を際立たせていた。

ピアノといい木管といい、美しい音に魅了されたけれど、テンポと重さに違和感を感じてあまり楽しめなかった演奏だった。

先週、ROHの《ドン・ジョヴァンニ》で軽快で楽しい演奏に触れていたから、そう感じたのかもしれない。


二曲目のブルックナー。これはすごい演奏だった。ゆっくりと歩を進め、特に奇をてらうことなく、どこまでもまっすぐに進む。

力が入ることもなく、かといって決して緩まない。弦も、木管も、金管も利かすけれど、ガツガツした力強さよりはしっとりとした流れを重視していたように感じた。果てしない繰り返しがいとおしく思えた。

オケは、やはり木管が美しかった。金管の迫力も凄かったけれど、若干荒い。弦はうねるというよりたゆたゆ感じ。美しい音を出すけれど、どこか土臭い感じがあって、ブルックナーにあっているように思った。

私もこの流れにしっかりと乗って、この曲の存分に味わうことができた。第二楽章の終わりワーグナーの葬送の部分では涙が出た。

第四楽章の終わり近く、金管の咆哮のあと、静かに弦が始まるところで、オルガンの音が聞こえた気がした。金管のあまりの音の強さにオルガンの管が共鳴したのかもしれない。とすると最後に音が切れた時にオルガンの共鳴が響くのかもとちょっと期待した。

終曲で、ハイティンクは金管をどんどんあおり、音量を上げさせて最後の音が消えた。ものすごい盛り上がりだった。当然ながら最後の音が消えるとすぐに拍手とブラボー。

ハイティンクは手を下げず広げたまま静かにしてほしいと示すかのように手を震わせていたけれど、拍手が消えることはなくハイティンクも手を下げた。オルガンの共鳴も少ししか聞こえなかった。

袖に引き上げるハイティンクはどこか不機嫌そうにも見えた。

でも、それも最初だけで、最後には一人でのカーテンコールにも出てきてくれた。


それにしても、ものすごいブルックナーだった。、ブルックナーの7番はこうあってほしという思いが、すべて満たされた理想的なブルックナー。こんな実演を聴けて本当に幸せだと、しみじみ思った。

考えてみれば、私にとって、ハイティンクのブルックナーは特別なものなのだと思う。大学生の時、まだ若いハイティンクのブルックナー第八番を何度も何度も繰り返し聞いていいたので、ハイティンクのブルックナーが体にしみこんでいたのかもしれない。

また、今回の演奏では、なぜか朝比奈隆さんの指揮を思い出してしまった。遅いモーツァルト、流れ重視のブルックナー7番。ハイティンクの指揮姿に朝比奈隆さんの指揮姿がダブって見えた。


私の若いころの思い出が滲み出してきた、深く心に残るコンサートだった。