京都市交響楽団第699回定期演奏会に行ってきた。会場は京都コンサートホール。2025年4月19日。
指揮者は、ジョン・アクセルロッド。
ソプラノ独唱は、森麻季。
コンサートマスターは、豊島泰嗣。
曲目は、
チャイコフスキー:幻想序曲「ハムレット」
R.シュトラウス:4つの最後の歌
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
プレトークでは、生と死をテーマにプログラムを作ったという。ハムレットは「生か死か」、シュトラウスは「死と変容」からの引用、「悲愴」は葬送。それがどう出るか、興味深いところ。
最初は幻想序曲「ハムレット」。
なんか管弦楽のバランスが悪い。木管が浮いて聴こえる。こんな京響の演奏は初めての感覚。テンポは遅いかな。と思ったら急に早くなる。音楽は美しかった。
2曲目は4つの最後の歌。
管弦楽はあまりR・シュトラウスのきらめきを感じない。ソプラノ独唱の森麻季さんは、オケに埋もれてあまり聴こえない。ただ、時々聴こえる声は美しく、無理して声を出してないのは好ましい。この人の声量のなさは仕方ないが、オケの制御にも問題があるかもしれない。
後半の「悲愴」。
こちらは、管弦楽がしっかりしていてよかった。ただ、指揮者の緩急がありすぎて私好みではない。また、第三楽章はもっと激しくてもいいと思った。
曲調の変化するところで無音の時間を設けていて、楽章間でも指揮棒をおろすのが遅く、その間も静寂が続く。静かな時間があるのは、なんか新鮮。
一番感激したのは、第三楽章終わりから静寂を挟んで切れ目なく始まった第四楽章冒頭。第三楽章最後の激しさの直後に静寂から始まったことで、第四楽章の葬送の美しさ、重さが際立って、体に電気が走るように痺れた。
第四楽章の管弦楽は、まさに葬送で、死を想起させるように重く悲しい。このコンサートで白眉だった。指揮者が体を緩めるまで長く拍手がなく、しみじみと音楽の重みを感じ取れたのも大変良かった。
今回の演奏は、指揮は、静かな時間が多くて私としてはありがたかったが、流れは私好みではないし、制御も十分ではないと感じた。しかし、「悲愴」の第四楽章は、その重さ、葬送、そして死を十分に感じ取れて、感激した。「生と死」のプログラムは死、葬送が強く印象に残った。
ソプラノの森麻季さんは、声量がないのはわかっていたので、思っていた通りになったが、声はきれいだし、感情も豊かだし、もっと仕事を選んだほうがいいのではないか。以前東京で聴いたヘンデル『リナルド』でのヒロインはとても良かったので、特にそう思う。少なくともフルオケをバックに大きなホールで歌う歌手ではないと思う。
オケは、やはり京響。弦のキレも、管の押しも素晴らしい。打楽器も大変良くて特にティンパニの激しさは言葉にならない。
ところで、前回の定演でも感じたことだが、これまでに比べて拍手が出るのが遅くなった。指揮者が体を緩めるまで静寂が続く。これは私にとっては大変好ましいことだが、突然こんなことになって不思議だった。会場でプログラムと一緒に挟まれているチラシにこんなものがあった。この3番の影響かな?チラシ一つでこんなことになるものなのだろうか?
不満は多々あったが、最後は満足して会場を後にした。終わりよければすべてよしというところかな。