コンヴィチュニー オペラ・ワークショップ in びわ湖2014《椿姫》の初日メモ |   kinuzabuの日々・・・

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コンヴィチュニー オペラ・ワークショップ in びわ湖2014の初日(7/30)に行ってきました。

今年の題材はヴェルディのオペラ《椿姫》。去年の《魔笛》に引き続き面白いですね。コンヴィチュニー節満載。ppとかフェルマータとかト書きとか。ちょっとした疑問にぐいぐいつっこんでいく。

ということで、コンヴィチュニーの発言の中から特に面白いと思ったところを抜き出してみました。演出あり、思想ありでごっちゃごちゃですが、メモということでお許しください。また書き足すかもしれませんが。

 なお、森岡実穂氏がまとめサイトを作っていらっしゃいますので、そちら もご覧ください。

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(冒頭)

びわ湖でのワークショップは数多くやったわけではないが、いろいろお伝えしたことで皆さんのオペラの知識を増やすことができたと思う。


私は《椿姫》というオペラを自分で演出してみるまでよく知らなかった。お涙ちょうだいのセンチメンタルな物語ではなく、とてもハードな作品であり、愛やラブストーリではなく一人の人間の物語

ヴィオレッタは命が短いことを知っている。それを少しでも伸ばそうと思っている。自分が余命5か月と宣告されたらどう思うか?余命をなんとかして少しでも伸ばそうと考えるだろう。ヴィオレッタは愛があれば伸ばせると思っている。でもうまくいかない。


このオペラで何人の人物が登場するか?実はヴィオレッタ一人だけ。他は人間じゃない。ただし、アルフレードは微妙。

アルフレードとヴィオレッタは、3か月も一緒にいて、ヴィオレッタのお金の工面のことも、アルフレードの妹のことも知らない

2幕1場、ヴィオレッタがアルフレードにさよならを告げる場面で、ヴィオレッタが壮絶に別れを歌った後のト書きにアルフレードが「本を読む」と書いてある(ホントに書いてあってびっくりした)。ヴィオレッタの思いがわからない。またヴィオレッタへの愛を語った後に5分で反発する

アルフレードは人間だが、とても幼い。女性を分かってないし、ヴィオレッタを手に入れることがどういう意味かわかってない。


舞台は、驚かれるかもしれないが、3枚の幕と椅子が一つだけ。舞台では幕は7枚だが3枚で考えてみよう。

椅子はもたれたり、落ちそうになったりいろいろできる。立っている人の中で一人だけ座っているので異質に見える
(後に言った話)

幕について、幕が開くと何が起こると思うか?人生のステージが変わる。最後の幕が開くと最後の人生が始まる。



(第一幕)

パーティではヴィオレッタの病気の噂話をしている。ヴィオレッタの登場で「わ、まだ生きてる!」という感じの反応をする。

登場人物は、ヴィオレッタ以外、皆、意地が悪く、良心のない、誰かのことを嘲笑し、常に何かアトラクションを求める。そんな人たちが地球上に存在する意味があるのか?

第一幕は舞台の社会のベースづくり



他の人が歌っている内容を知らないと演技がつながらない。
F「あなたは大丈夫なの?」⇒V「私は楽しみたいの」(イラついている)⇒F(ああ言っているけどほんとかしらね)

振り返るタイミングが早すぎる⇒歌を知っているからそうなる。聞いてから振り返ること。

なぜ、ヴィオレッタはアルフレードに恋心をいだくのか?⇒ほかの人と違うから。服装、インテリ。

男爵はものすごい金持ち。機嫌を損ねたら大変、嫌われたら困るから取り巻きはうまくとりつくろう。

ディティールが多いが、ディティールを積み重ねることで共感できる作品ができる



田舎者に口を開かせるには、ヴィオレッタのエスコートが必要⇒「私が『エベ』の役を務めましょう」

『エベ』を酒の神と知っているのはアルフレードだけ。だからアルフレードが答える。

ヴィオレッタはただ歌うだけではお嬢さんになるから、皮肉っぽく笑う。え?うそでしょ



オペラはこれまで観たものに刷り込まれる。それを取り払う作業が必要。取り払う作業も面白いプロセス



合唱の立ち位置が半円状になっている。演奏会の合唱ではない。客席を見て歌わない。

アルフレードは珍獣のようなもの。バーゲン会場で商品台に群がるようにアルフレードの周りを取り巻いて動く



ヴェルディは《リゴレット》では妥協して時代を古くした。《椿姫》では自分の時代の設定にこだわった。2014年に《椿姫》を上演する理由は何か。1853年か、2014年か、どちらか?



(乾杯の歌の直前)フェルマータを書いている以上、演出に使う。⇒周りは、ぜひ歌ってほしいという表現。デジカメで写真を撮るとか。

フェルマータで、アルフレードは歌うことへ周りの同意を取る



ヴィオレッタが(乾杯の歌の)二番を歌う理由は何か?アルフレードの一番を引き継ぐ。

例えば《ボエーム》では「冷たい手を」を死ぬ前にも歌う。そこには死のうとする時間にそのことを思い出している、二人の強い結びつきがある。

この二番をどう扱うかに演出の可能性がある
⇒ヴィオレッタはアルフレードがからかわれて怒っている。その場から逃げようとするアルフレードを救う



合唱はユニゾン。美しい舞台ではなく原始的でバカ騒ぎ

合唱後半でpp。何故ここでpp?舞台で理由付けする必要がある。⇒ヴィオレッタがアルフレードをかばって周りを静止する



翻訳は90%ぐらい間違っている
翻訳を確認すること。本当の内容を知ることは歌う上でも役に立つ。



合唱は機械人間のように二人を追い詰める。同じような場面は第二幕後半にある。黙示録のような音楽乾杯の歌はその予兆。



乾杯の歌に不要なフェルマータをつけないこと。ウィーンやMETに行けばそんな公演はいくらでも聴ける


(乾杯の歌が終わって、突然最初からここまで通すことになって、大慌て)



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この日は以上で終わりです。なんとか乾杯の歌の最後まで行きましたね。翌日ダメ出しをするそうですが。

また、別の日にも行く予定ですので、その時はまたブログに書きます。