こんにちは。きのひです。

「食べない人たち」 秋山佳胤・森美智代・山田鷹夫 共著 を読みました。

平成26年7月20日 第1刷発行

平成26年9月15日 第4刷発行











題名から「拒食症」の話かと思いましたが違いました。

本書は「不食(ふしょく)」について書かれた本。



「『不食』が人を健康にする」











不食とは「『物質的な食物を摂取(せっしゅ)しなくても、人は生存できる』ということを証明するための生き方といってもよいでしょう」

「『断食(だんじき)』には、そうした考え方はありません」












断食では一時的に食物の摂取を絶ちます。

その期間が過ぎれば元の食生活に戻っていく。











それに対して、食べない生活を習慣としてずっと続けるのが不食。

「そんなことが本当にできるのでしょうか」




「できます。本来、誰でもできます」












「はじめに」に書いてあるこの言葉を読んでもよく理解できませんでした。

「きちんと三食」食べなくていいなんて初めて聞いたかも。











「不食とは、食べるのをがまんすることではありません」

「食べないほうが、心と体にとってどれだけらくで、どれだけ多くの幸福をもたらすかを知ることなのです」











秋山佳胤さんは、2006年から徐々に食べる量をへらしていきました。

2008年には、完全に「プラーナ(大気中のエネルギー=「気(き)」と呼ばれるもの)」をとって生きていることに気がついた。



以来、食物も水もまったくいらない、完全な不食を実践しています。












森美智代さんは甲田光雄(こうだみつお)先生によって不食へと導かれた。

「不食は決して特別なことでも、たいへんなことでもありません」



少食を長く続けているうちに誰でも空腹に慣れていき、いつの間にか不食に近づいていく。











21歳のときになぜかひどいめまいやふらつきがよく起こるようになり、歩いているとよくころぶようになりました。

体のバランスがとりにくく、歩くとまるで酔っぱらったときのように左右にフラフラしてしまう。











何軒もの病院を回ったあと、最後に神経内科の専門医からいわれたのは「脊髄小脳変性症(せきずいしょうのうへんせいしょう)ですね」

これは体の運動と平衡(へいこう)をつかさどる小脳がだんだん委縮(いしゅく)していく進行性の病気でした。











「治る方法はあるのですか」ときくとハッキリといわれました。

「ありません」











森さんは大阪・八尾(やお)の甲田医院で甲田先生にこれまでの経過をつぶさに報告した。

甲田先生はむずかしそうな顔をされたあと森さんを真っすぐに見てからいいました。




「治るよ」

「おなかにガスがたまっているのが原因だ。断食をすれば治るよ」












森さんは脊髄小脳変性症という難病によって、不食へと一歩一歩近づいていった。

1996年には青菜150グラムの青汁のみになりました。











山田鷹夫さんは2001年7月に食べない実験を開始した。

「人は食べなくても生きることができる」ことを証明するためです。











当時の日本はまるで巨大な胃袋と化して、食い道楽の頂点をめざしているかのようだった。

「いかにうまいものを安く、たくさん食べるか、社会全体で考えているような感じです」











そのころ山田さんは五十代になっていた。

たまたま読んだ医師の故・小倉重成(おぐらしげなり)氏の著書「一日一食健康法」(講談社)に強い感銘を受けました。











当時、小倉医師は61歳で快眠・快走・快登を目標として掲げていた。

「熟睡できること、マラソンなら最低限十キロ、縄跳びなら最小限五千回を楽しくこなせるのが快走で、三千メートル級の山を楽しく踏破できるのが快登です」












その小倉医師のパワーの秘訣が「多くても一日一食」だった。

「それ以上多く食べると、逆に疲れて力が出ない」











これを読んで山田さんは一日一食にしました。

実際に試すと不食の実験はむずかしいどころか、山田さんにとってはとても楽しいものだった。












「不食の実験を拷問(ごうもん)のように耐えがたい悲惨なものと思っている人がたくさんいるでしょう」

「残念ながら、それはまったくの誤解です」











「不食と断食は別のもの」

向かう方向性がまったく異なります。












「断食が修行的・苦行的であるのに対して、不食はある意味、趣味のような気らくな行為なのです」

この質的な違いはどこから生じてくるのか。











それは「実行している人の意識の違い」

断食は「人は食べなければ生きられない」と考えている人がわざわざ食べないようにするので、たいへんなことになる。












一方、不食は「人は食べなくても生きられる」という考え方で行います。

食べなくても生きられると考える人が食べないようにすることには、本質的に努力はいらない。




「断食が修行であるのに対して、不食はなんと快楽なのです」














断食と不食、同じ「食べない」という行為でも、意識のありかたでそれほど違う結果をもたらす。

そもそもの考え方の逆転にびっくりです。











「もうこんな時間だからご飯を食べないと」と思わなくていいのは確かに気が楽かも。

お腹がすいても食べても食べなくてもいいという考え方。











少なくともご飯屋さんは困るでしょうね。