旧戸草トンネル | 柳田 金乃助 絵画活動情報

柳田 金乃助 絵画活動情報

絵画活動について色々と御紹介致します。
取材旅、制作姿勢、過去の作品等々、
不定期で更新予定。

また自身の出展する展覧会情報も随時掲載致しますので
ご興味の湧いた方は是非是非覗いてくださいませ!

どうぞ宜しくお願い致します。


【旧戸草(とくさ)トンネル】(長野県信濃町)



春先に少し下火に向かうかな?と思われていたコロナウイルスの感染者数も
あれよあれよという間に激増し、
気がつけば東京都の新規感染者が
5000人を突破する日も珍しくなくなってきました。

そんな中、
私の方も相変わらず取材は自粛中で、
先日の新潟県雪梁舎美術館で行われた
授賞式がかなり久しぶりの県跨ぎとなりました。

早く各地で廃墟や史跡の調査を再開し、
その模様をお届けしたいのですが、
もうしばらくは大人しくしていようと思います。


しかし幸いな事に
過去に回った取材地の記録も沢山手元にありますので、
これからも記事が出来上がり次第
どんどん紹介していきますね!


と、言うわけで
今回は長野県信濃町で出逢った
大変な働き者である旧戸草トンネルへ行ってみましょう!




何故働き者かと言いますと、、、。


長野県内初となる鉄道
当時の信越線(関山駅~長野駅間)が引かれるにあたり
その前年の1887年(明治20年)に
戸草トンネルは竣工されました。

その後、1966年(昭和41年)、
鉄道電化に伴うトンネルの新設工事により
鉄道としての役目は終えたものの、
町の道路となり
ほぼ当時のままの姿で
トンネルとして現役を貫いています。

つまり現在まで134年間、
鉄道から車道へと姿を変えながらも
ずっと何かしらの「道」として
人間の役に立ってきたというわけです。

これだけの間、
無休で働き続ける事は
人間にはとても真似できませんね。

正に働き者と言えましょう!


余談ですが、
インターネットで
「旧戸草トンネル」を検索すると
24時間営業と表示されていました(笑)




▲上写真の左手側は新設されたトンネル

その右手後方に見えるのが
旧戸草トンネルです。




私が訪れた時、
鉄道脇の側道で物静かに、
しかし確かな存在感を纏(まと)って
佇(たたず)んでいました。

1966年(昭和41年)迄は
この車道が信越線の線路だったということになります。



▲切石と煉瓦(れんが)による職人芸。

コンクリートが普及する以前、
明治時代中期頃迄に造られたトンネルは
切石や煉瓦造りが主流でしたので
特に重厚感漂う外見に!


建設当時は資材運搬や予算の関係で、
切石はごく近所の山で切り出され
煉瓦も地元で焼かれたモノが使われたそうです。

生粋の地元っ子ですね!



日本が自然災害大国である事や、
先の大戦等を加味すると
134年経過しても尚
この美しい外観を保っているというのは
もはや奇跡と言っても良いでしょう。




トンネル中央部の煉瓦アーチ部分だけは
晩年になり落下物防止の観点から
一定区間コンクリート補修がなされていますが、
トンネルの出入口は見ての通りの美しさ!

手直しはほぼ皆無なんだそうですよ。




トンネル内の照明は
派手なモノではなく
オレンジ色の淡い光となっていました。


静かなトンネルへ入るといつも思いますが
何かこう異世界へ続く道の様な、
不思議で怪しい感じがありますね。


▲こちらは反対側の出入口


▲この写真、
恐らく同行のスタッフに何かを熱心に説明している最中だと思うのですが、

トンネルに何やら祈願でもしているかの様な、
おかしな写真になってしまいました。



▲最後にカメラを置いて
トンネルを端から端までゆっくりと歩いてみることにしました。



トンネルの中を歩いた時、
なんだかここが我々人間の生きている時間の流れそのものに思えてきました。



トンネル内部に順番に現れる
照明による光と影は

交互に押し寄せる
人生の苦楽の様にも見えます。


そして時には自分自身で作り出した
足元にのびる黒い影(幻影)に
実体が飲み込まれそうになる事も!?

これまで生きてきて
そう言うことが幾度となく
あった気がしました。



そうすると
先に待ち受ける我々の未来は、、、。

この目の眩(くら)む様な光に包まれる
トンネルの出口の様に、

非常に明るいということでしょうか!?


是非!
是非!!
是非!!!

そう願いたいものですね!



そう言えば先ほどの
トンネルへ祈願している風な私の姿、

この記事を書いた後だと
あながち間違ってはいなかった様にも思えてきました。


▲明るい未来を祈願!!?



金乃助