柳田 金乃助 絵画活動情報

柳田 金乃助 絵画活動情報

絵画活動について色々と御紹介致します。
取材、制作、過去の作品についてなどなど
不定期で更新予定。

また自身の出品する各展覧会情報等も掲載致しますので
ご興味の方は是非とも覗いてくださいませ。



▲【ニッチツ(日窒)鉱山本坑選鉱場】


埼玉県秩父市中津川峡の上流にかつて
大滝村という地名が存在した。
(現在の秩父市大滝とは所在地が多少異なります)

群馬県との県境に位置し、
両神山を望むこの地区は
県内でも最も深い山々に囲まれた一角、


そこに旧秩父鉱山(現,ニッチツ鉱山)の遺構を残した
鉱山街の跡地が今もひっそりと佇んでいます。


ここは私が鉱山跡地としては
過去最も足を運び
取材をさせて頂いた場所で、

今日(こんにち)の絵画のテーマや
取材の進め方、その諸々の体制等を確立する足掛かりともなった
最初の本格的取材地でもありました。

1998年に書物でこの鉱山を知り、

6年後の2004年、 

まだ見ぬ理想の中にしかなかったこの場所に、漸(ようや)く自力で辿り着くことが出来ました。


それから2006年にかけて約2年間、
月に2~3回程度の割合で足を運び
ニッチツ鉱山ではもう知らない場所は無いであろうと思われた2007年、
東京都新宿区のギャラリーにて旧秩父鉱山のみをテーマにした絵画と写真の展覧会を行うに至りました。


私が取材をし始めた2004年当時、
まだかなりの鉱山施設、住宅とその他の建造物が残っており
初めて訪れた時には、山中に溢れかえった幾多の廃墟に驚愕した記憶があります。


外部からの交通の弁の悪さから
陸の孤島と言わしめた秩父鉱山でしたが 
残された廃墟の規模を見ていると
流石、最盛期に三千人を超える人口を誇った町というだけの事はありました。


旧秩父鉱山は
昭和48年に実質的な閉山を迎え
ほとんどの鉱山従事者や住人達が順次退去したのですが、
その後も規模を縮小して操業。 

現在でも数十名ほどが、
石灰石等の採掘、加工を続けています。


山の奥地の大きな廃村に
現役の工場のみが稼働している姿は
随分と奇妙な光景でしたが、

取材を進める過程で
現役区分が残っているが故の有難い恩恵を受けることとなります。


鉱山跡地に到着したものの
町の全体像もよくわからない上に廃墟の範囲が非常に広かった為、
取材当初はよくニッチツ鉱山の社員に頼み込んで、
お仕事の合間に方々(ほうぼう)案内して頂きました。

ただの廃村ではこうはいきません。


鉱山にあまり似つかわしくない自身の容姿も手伝ってか
顔を覚えられるのも早く、

現地の方々の計らいで
使わなくなった作業員の休憩所や
水道、トイレ等の施設も貸して頂き
長い長い取材もスムーズに進みました。


一日中、廃村状態の場所にいるので
これらの設備に恵まれた事は 
大いに助かりました。

その中でも特にトイレの存在は絶大なもので、


我々の様な人種からすると
さしずめ、

「廃村でトイレが出来る=大海で浮木(ふぼく)に出会う」

と言ったところでした。


しかし 
2007年の展覧会以降、
時代の流れやその他のやむを得ない事情によって
私にとっては残念な出来事が続きます。

丁度この年より
鉱山施設や住宅跡等の大規模な解体が始まり、

翌年2008年には
本坑がある小倉沢地区から八丁峠へ数百メートルの場所に存在した
昭和期に新設の巨大工場群が全て解体。

その後も
社宅跡、商店跡、共同浴場跡といった
多数の廃墟が次々更地になり

私の記憶している限りでは
2012~3年頃迄には
本坑とその周辺の遺構を除いて
旧鉱山街の実に7割が消滅してしまいました。

そして現在
私が停泊した従業員休憩所や
トイレはもうありません。

古くからの住人が住み続けていた
唯一の鉱山住宅棟も
いつの間にか無人と化していました。


閉山している鉱山な訳ですから
残っている廃墟が風化により崩落したり、解体の対象になるのは
当然といえば当然の末路。

しかし、
この寂しさや虚しさは一体、、、。


廃墟を求めて辿り着いた取材地とはいえ
馴染みの土地が短期間で大きく変貌していく様を見てると
とても複雑な感情が交錯します。

ただ、そんな私を尻目に
この長期の取材を通じて現地で接した方々は、
作業員も住人も
とても廃墟群と共存しているとは思えない様な、陽気で活発な印象でした。


まだかろうじて旧鉱山時代の住人が残っていた時期に
2007年の展覧会の記念に作った絵葉書を数枚、
小倉沢地区に住まわれていた高齢の御婦人にプレゼントした事がありました。

勿論、絵葉書にした絵というのは
ニッチツ鉱山の廃墟群で、
当然、現地住人からすると
すぐ近所の廃工場や廃校等が描かれている訳ですが

僕の描いたそれらの絵をまじまじと見て
 

「あ~あ~、あそこの工場(こうば)ね~。
でもあんな汚ったないところ描いて一体どうすんだ?」

笑って話されていたのが
とても可笑(おか)しくて良い思い出です。


最初に足を踏み入れてから今年で15年、

その年、その年に思い出深いエピソードがありとても全てを書ききれませんが、


手元に残る写真と資料で、
私の目から見たニッチツ鉱山の姿を少しだけご紹介したいと思います。




中津川を遡り、
県道を外れ清流の真横に作られた少々荒めの舗装道路を進み
この様なトンネルを何本も抜けると
鉱山街が現れます。


↓川を挟んだ対岸の社宅や作業場に行くための小さな橋の残骸が所々にあります。
(※解体済)




↓県道沿いの第一沈殿池へ続く素堀りトンネル








↑この未舗装道路の左手側を降りていくと
第一沈殿池があるのですが(取材時、沈殿池はほとんど枯渇していました)
一見ただの崖にしか見えず、作業員に案内されて初めて沈殿池の存在を知る。



※滝壺は沈殿池ではありません。


↑沈殿池と隣接する清流と古い※暗渠(あんきょ)

真冬にはこの辺りの流れを塞(せ)き止めて
スケートリンクを作ったそうです。

※暗渠とは地下に作られた河川や水路

(素堀りトンネルより奥は一般人立入禁止区域)




↑金森組宿舎(旧社宅)
ニッチツ鉱山には幾つもの組があり
それぞれ工程の異なる仕事を請け負っていたそうです。













幾つかの作業場跡を過ぎると
ニッチツ鉱山の中心、小倉沢地区
本坑選鉱場を右手に見ることが出来る。









唯一現役の区画である。


その先から住居のメイン区画
↓売店彦久保(旧秀峰寮)※解体済




↑社宅(二階建てアパート)※崩落後解体



↑向かって左側赤いトタン屋根が
教員宿舎。※解体済

中央の木造建物が手術室、レントゲン室、歯医者等を兼ね備えた診療所。※ほぼ崩壊

右上の大きな建物が集会場兼劇場。

右下の小振りな建物は豆腐屋だったそうです。※解体済

この付近は特に施設の密集する区画
写真では切れていますが
左側手前にかつて山吹寮(※解体済)と呼ばれる女子寮があり鉱員達の注目の的だったという。


↓その他の社宅、住居群


↑第一合宿(社員用)正面玄関

↓第一合宿(社員用)






昭和39年の組合による身分制度撤廃が通達されるまでは
現地採用の鉱員(現場作業場)と
本社採用の社員(キャリア組)では明らかな差別があり
社宅も下は鉱員、上は社員と
ハッキリ別れていたそうです。

確かに鉱員住居と社員住居では
かなり造りや間取りが違いました。



↑奥手の白い建物が女子寮
その手前が共同浴場、更に手前が給食センター











↑原島商店












↓集会場入口
2004年頃は緞帳(どんちょう)は全て舞台を覆っていたが年々痛みも激しく崩壊は進む。(現在ではここの区画自体が立入禁止となっています)





















↓小倉沢小中学校(小中合同)は廃校になってから
一部分、ニッチツ鉱山の資材置き場として活用されているので
取材許可が下りたのは校舎の左側が主でした。















↓対岸にある木造とトタンの施設
2008年の大規模解体迄は鉱山施設関連の廃墟は相当な数でしたので、
産業遺産になる前に崩壊や解体の一途を辿ったというのは何とも残念です。



↓本坑の鉱山街から数百メートルほど離れた山道でも
この様な精製関係の重機等を幾つか見ることが出来ました。

ちなみにこれは2階建ての一軒家ほどの大きさです。



↓こちらも惜しくも解体されてしまった工場群。
もし解体される時期が正確にわかっていたら
この巨大迷宮をもっとしっかり取材していただろうなと、
ニッチツ鉱山一連の取材で唯一の悔やみです。









掲載写真(2004年~2017年)

一部、銀塩プリントの転写がございます。

※建物、歴史についての説明文は
聞き込みや入念な資料調査を元に執筆しておりますが
物件の関係上、裏付けを取るのが困難なものも多く100%の情報保証は出来ません事、何卒ご了承くださいませ。



【ニッチツ鉱山(旧秩父鉱山)略歴】

江戸時代より所有者、名称を幾重にも変更しながら
明治43年(1910年)、
日本鉱業開発合名会社が赤岩坑の買収を機に「秩父鉱山」と命名。


大正7年(1917年)、
秩父鉱業株式会社設立。

昭和12年(1937年)、
日窒鉱業株式会社へ鉱業権を譲渡。

昭和25年(1950年)、
日窒鉱業株式会社設立(同名だが新会社)

高度成長期末期頃より
世界的なエネルギー革命により日本全国で鉱山の衰退が始まる。

昭和48年(1973年)、
実質的な閉山。

その後規模を縮小して
親会社,日窒鉱業株式会社より
ニッチツ鉱山株式会社として独立。

昭和53年(1978年)、
完全に非金属鉱山となる。

セメントの原料である石灰や珪砂の採掘加工が主な業務となる。

令和元年(2019年)、
現在も数十名の作業員がその作業を続けている。

                    
 【参考文献,資料協力】
・ニッチツ鉱山(株)
・秩父鉱山(黒沢和義,著)
・現地取材による証言,その他。





最後に、
ニッチツ鉱山取材を通じて出逢い、
そして協力して頂いた全ての関係者に改めて感謝致します!



秩父鉱山のシンボル【赤岩】




                                                             金乃助