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テレビ購入計画

 80歳の母がテレビを購入すると言う。

 現在14インチのブラウン管テレビを見ている。

 だから新しく購入するとしたら19~22インチ。(普通に売っているのって19インチからなんですね)

 ブルーレイが内蔵だと26インチくらいからになってします。それにDVDで十分だろうと思われる。ってことは外付けで使いやすいのがいいだろう。

 で母はWindowsMEのパソコンを使っているけれど、アンチウィルスソフトも入っていないし、ブラウザはもうとんでもないのだし、最近はWebも見に行けなくなっている。現在はソリティア専用機となっている。だからネットサーフィンもできたほうがいいだろう。

 現在の候補は

東芝REGZA 19RE1 と RD-R100 の組み合わせ。

 他候補ももうちょい調べてみます。

 しかしエコポイントが11月末で終わるということで、小さな電気屋さんでは「商品が回ってくるかなあ」状態だそうです。

シャープ AQUOS LC-20DZ3 と DV-ACV52 の組み合わせ。
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11月15日(月曜日)

 おはようございます。

 起動させっぱなしです。

 天気は曇り。
 特に寒くもないかな。

石原莞爾と満州帝国 歴史読本 2009年9月号

 図書館で借りて来ました。

歴史読本 2009年 09月号 [雑誌]/著者不明

¥1,090
Amazon.co.jp

 この雑誌がどういう位置づけかは知りませんが、少なくとも「自虐史観」と呼ばれるものではないでしょう。

戸部良一「フォトドキュメント 満州事変」

1928年6月4日 張作霖爆殺。関東軍高級参謀河本大作大佐の計画。

1931年9月18日 柳条湖事件。関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、作戦参謀石原石原莞爾中佐などの謀略による。柳条湖の線路爆破の後、関東軍独立守備隊は中国軍から射撃されたとして、張学良軍の兵営、北大営を攻撃、占領。中国軍は抵抗せず。板垣大佐は武力衝突の報で直ちに奉天城攻撃を命じる。旅順の軍司令部では、石原中佐が軍主力の奉天集中と中国軍懲

 私は「いくさいやだよ満州事変」と覚えていました。柳条湖事件の年のことですね。

1392年1月28日 第1次上海事変。田中隆吉中佐が満州への日本政府や列強の目をそらさせるために計画。結果的にその意図は成功。

1932年3月1日 満州国建国宣言。日本が満州国を正式承認したのは9月15日。

 これはどれだけ現地が暴走しているかという証拠ですね。政府がコントロールしているのだったら即日承認でしょうから。

1933年5月31日。塘沽停戦協定。一応のピリオド。


松本健一と佐野眞一の対談

 日露戦争は薩長閥が軍隊を率いた。戊辰戦争で負けた東北人は軍隊の下っ端としているしかなかった。満州幻想帝国は石原莞爾を始めとした東北人のルサンチマンの成果である。当時の軍部では多くの東北人がえらくなっていた。しかし、それを受け継いだのは岸信介など長州出身の革新官僚であり、その人たちが高度経済成長を引っ張った。

 山形県酒田で軍事法廷が開かれた時、病気だった石原はリヤカーに乗って法廷に出た。そのリヤカーを引いていたのは曹寧柱(民団創設者)と大山倍達(極真空手創設者・空手バカ一代)(これは事実だったのか伝説なのかはわからないと記事にあり)


阿部博行「石原莞爾の生涯」

1989年1月 生まれる。

1920年、田中智学の国柱会に入る。宮澤賢治も同年入会。賢治の遺言で作った「国譯妙法蓮華経」の配布先の一人は石原。

1926年2月26日 2.26事件で見当たり次第斬殺すべき者のリストに入っていた。

1939年10月 石原の盟友木村武雄が「東亜連盟協会」を結成。

1941年3月 予備役編入(要するにクビ)

1945年12月段階で東亜連盟の会員は東北地方を中心に4、5万人に拡大。

1946年1月 GHQが東亜連盟同志会などの解散と公職追放を指令。

1946年1月以降、東京帝大病院・東京逓信病院に入院、尿が出し流しとなり死ぬまでしびんを話せなくなった。アメリカ・イギリス・ソ連の検事が臨床尋問したさい、戦犯の中で第一級は、空襲・原爆投下で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙したトルーマンで、本当の元凶は鎖国の日本を脅かし開国させ、日本を台湾・朝鮮・満州に赴かせたペリーであると答えた。東條英機と意見が対立していたというではないかとの問いには、東條には思想も意見もなく、意見のない者とは意見の対立はない、と喝破した。

1949年8月15日 死去 享年60歳


 何か想像もつかない一生です。


石橋湛山「東洋経済新報」1921年(大正10年)7月30日号社説
「支那と提携して太平洋会議に臨むべし」の中で
「(アジアなど)弱小国に対して、この『取る』態度を一変して、『棄つる』覚悟に改めよ、即ち満州を放棄し、朝鮮台湾に独立を許し、其他支那に樹立している幾多の経済的特権、武装的足懸り等を捨ててしまえ、そして此等弱小国と共に生きよ」

 すげえ。1921年時点でこんなことを書いていた人がいたなんて。