「熾火」第20回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
「ほう、これはこれは――」
 草薙はそらの和服姿を見ると感嘆のため息を洩らした。
 俵屋の女将がそらに似合うだろうと見立てたのは、霞色の淡い色合いの生地の袖と裾にさっと刷くように薄紅梅を流した品のある一着だった。絵羽模様は裾のところにだけ描かれていて、生地の色に合わせたように仄かに色づく梅の花びらや鶯が舞っている。帯は黒地に加賀五彩のひとつである古代紫と金箔を配したものだ。美しいがやや地味な印象の長着に適度な格を与えている。
「どうだい、どこから見ても立派な若奥様だろう?」
 女将は得意げに胸を張った。選んでいる間は「長身のあんたには本当は派手で大きな柄物が似合うんだけど」と不満げな様子を見せていたが、この出で立ちで向かう先を考えれば華美なものよりこれくらい大人しい柄の方がいいのでは、とそらは思っていた。
「見立ての良さは相変わらずだな、姉さん」
「心にもないお世辞を言うんじゃないよ。それにあんたに言ってるんじゃない。あたしはこの子に言ってるんだ」
「ええ、とっても素敵です」
 草薙が女将を”姉”と呼んだことに内心驚きながら、そらは姿見に見入った。普段はまったく縁がないし、母親の店の手伝いのときも年配の夕子の和服はどうしても地味で”着物を着る”という心躍る感覚とは無縁の代物だ。
 しかし、鏡に映る自分はまるで別人のようだった。化粧も女将の手でやり直しているので自分では出せない艶があるし、髪も簡単にだがアップにまとめて輪島塗のかんざしで留められている。自惚れもいいところだと嗤いつつもそらは目を離せないでいた。
 
 ――喬夫さんに見せたかったな。

 そんな想いが脳裏をよぎる。もちろん、自分が和服を着せられている理由を考えればそんなことが出来るはずはない。
 草薙の知り合いの店で記念に着せてもらったと嘘をつくことは出来るだろう。古都を称する観光地には着物を貸す店があるものだし、それでなくてもここは加賀友禅の郷だ。しかし、これ以上の嘘を重ねてまですることではなかった。
「背が高いからお端折りの分が足りなくてね。ちょいと窮屈な着付けになってる。あまり無理させるんじゃないよ」
「分かった。樋口さん、行きましょうか」
 そらは女将が手渡した道行を羽織った。全体に抑えた色味に仕上がったのを補うような猩々緋の鮮やかさには戸惑ったが、隣に立つ草薙が鉄紺の暗い色調の袴姿の上にいつもの黒いインバネスコートを着込んでいて、これで自分まで暗い色になればまるで葬式に向かうように見えてしまうことに気づいた。その辺りまで考えての女将の見立てにそらは感心した。
「――ところで、伊織」
 入り口まで見送りにきた女将が草薙を呼び止めた。
「なんだい?」
「あんた、友矩の墓参りには行ったのかい?」
 急にその場からあらゆる音が消え去ったような沈黙。そらは思わず草薙の横顔を見やった。
「……いや、まだだ」
「まだってことは行く気はあるってことだね?」
「気が向いたらね」
「この前、あたしが同じことを訊いたとき、あんたは同じように答えた。覚えてるかい?」
「そうだったかな」
「とぼけるんじゃないよ。伊織、あんたはいつもそうやって、たった一人の弟の墓参りもせずに帰っちまう。断っとくが、こっそり顔を出したなんて嘘をついても無駄だよ。あたしがあそこの住職と茶飲み友達なのは知ってるだろ?」
「だから何なんだ?」
「あんた、まだ友矩のことが許せないのかい?」
 再び、我慢比べのような重い沈黙。
「……姉さん、余所の人がいる前で家の恥を口にする必要はないだろう」
「ふん、女房と別れるのにその余所の人の助けを借りようとしてるくせによく言うね。――ほら、タクシーが来たみたいだよ」
 格子戸の外で控えめなクラクションが鳴らされた。しばらくの間、姉に言い返す言葉を捜していた草薙は、やがて苛立たしそうに小さく首を振った。
「悪いが、墓参りには行かないよ」
「別にあたしはどうもでいいよ。でも、いつまでそうやって目を背け続けるつもりだい?」
「姉さんには関係ないだろう」
「確かにね。でも――」
「余計なことは言わなくていい!」
 草薙はぴしゃりと姉の言葉を遮り、そらに向かって取って付けたような静かな口調で「……参りましょうか」と言った。一歩下がったところから姉弟の会話を見ていたそらだったが、その場で自分に出来ることが無関心を装うことだけなのは分かっていた。
 そらは何も言わずに女将に静々と頭を下げて、大股で出て行く老人の後に続いた。

 案の定、タクシーの中は気まずい沈黙に満ちていた。
 事情を訊いていいものか、そらには判断がつかなかった。離婚にあたって後妻――籍を入れてはいないので正確には婚約者――を演じる以上、草薙本人の家庭についてはある程度のことを知っていなくてはならない。だから、訊いてもいいような気はする。
 しかし、実際には本当の夫婦でもお互いの家庭の事情、特に人目を憚るような事柄について必要がなければ話していないことは多いものだ。
 窓の外を眺めていた草薙が小さな笑みを浮かべてそらに向き直った。
「すみません、お恥ずかしいところを見せてしまいましたな」
「いえ、そんな――」
 そらも礼儀正しく微笑を浮かべた。他に何が出来ると言うのか。
「姉と言っても一回り以上も歳が離れていましてね。家が商売をやっていて両親が忙しかったせいもあって、私たちの面倒を見てくれていたのは姉でした。おかげでこの歳になっても子供扱いです」
「お姉様、そんな御歳なんですか?」
「呆れるくらい元気でしょう? 我が家はひどく頑健に出来ているか、若くしてポックリ逝くかのどちらかでしてね」
「その……弟さんは?」
「ポックリ逝った方に入るでしょう。弥生が生まれた次の年でしたから35年――いや、もうすぐ40年になります」
 つまり、今のそらとそれほど違わない年齢だったということだった。話を続けていいものか、迷いがなかった訳ではないが、そらは言葉を続けた。
「ご病気か何かで?」
「いや――」
 草薙はしばらく言葉を選ぶように押し黙った。
「そうだったら、まだ諦めがつくのですがね。――自殺したのです。納屋で首を吊って」
 そんなことではないか、と思わなくはなかったが、実際に聞かされればそれなりの衝撃だった。そらは思わず息を呑んだ。
「すみません、変なこと訊いて」
「いえいえ、こちらが話を振ったようなものです。お気になさらないでください。むしろ、私のほうが謝らなくてはならないくらいだ」
「いえ――」
 話はそこで途切れた。
 これ以上、踏み込んだ話を訊くことは出来ないが、そらの中で先程の女将と草薙の会話が一つの形を成そうとしていた。どんな確執が横たわっているのかは分からない。だが、草薙友矩の死とそこに至る経緯が長い年月が過ぎた今も兄弟の間に深い溝を残しているのだ。一人はすでにこの世の人ではないというのに。
「ところで樋口さん、お願いしていたことですが」
 草薙は強引に話題を変えた。
「はい?」
「名前の件です。何か、いいものを思いつかれましたか?」
 今回の後妻を演じる件について、そらは草薙から一つの頼まれ事を受けていた。それは偽名を考えることだった。
 知り合いがいる土地ではない。別に本名でも構わないだろうとそらは訝ったが、念の為だと草薙は苦笑混じりに言った。妻も娘も草薙の財産など当てにはしていない筈だが、それは当人たちの話であって利害が絡む者がいない訳ではない。ひょっとしたら話を聞きつけて事実関係を調べ始める輩が出てこないとも限らず、そのときにそらの本名が知れるのは決して都合の良い話ではなかった。
 しかし、偽名などそう簡単に思いつくものではない。名付けること自体は簡単でも馴染むのには時間がかかるからだ。草薙の妻や娘の前で偽名を呼ばれて自分だと気づかないなどという醜態を晒す訳にもいかない。
「いろいろ考えたんですけど――母の名前で構いませんか?」
 そらの返答に草薙は目を瞬かせた。
「母堂の?」
「ええ。河合だったら旧姓ですからわたしも違和感ありませんし、草薙さんがおっしゃるように誰かが調べたとしても歳も外見も違いますから大丈夫なんじゃないかって。まぁ、ちょっと調べればその娘が一緒に来た女だって分かっちゃうかもしれませんけど」
「……いえ、そんなことはないでしょう。幾らなんでも写真を撮られることはないでしょうし、それにこう言っては何ですが、普段とはかなり印象が違いますから。今の樋口さんはとても落ち着いて見える」
「わたし、いつもはそんなに落ち着きないですか?」
「あ、いや、そういう訳では……」
 慌てて言い繕おうとする草薙を見ていると、不思議なことに相手が倍以上の年齢の老人だという感じはしなかった。それが旅先という非日常の情景が感じさせるものなのか、それとも、仮初めとは言え夫婦を演じるというあり得ないシチュエーションがもたらすものなのか。
 それはそら自身にもよく分からなかった。